クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実

1985年7月13日、イギリス・ロンドンで行われたライヴ・エイドに出演したフレディ・マーキュリー(Photo by Peter Still/Redferns)


2. マーキュリーが“クイーンの紋章”をデザインした

“クイーン”の名前がフレディ・マーキュリーの考案だということには何の驚きもない。バンド名の候補には、“ビルド・ユア・オウン・ボート”、“ザ・グランド・ダンス”、“ザ・リッチ・キッズ”なども挙げられていたが、いずれもシンガーのビジョンに叶うものではなかった。「クイーンのコンセプトは、威厳を持ち壮大であることだ。僕らはダンディでいたいんだ。インパクトのある斬新なバンドでありたい」と彼は、英国の音楽専門週刊誌メロディ・メイカーに語っている。クイーンは期待通りの道を歩んだ。

マーキュリーはバンド名だけでなく、王家の紋章をイメージした特徴あるロゴもデザインした。ロニー・ウッドやピート・タウンゼントも通ったロンドンのイーリング・アート・カレッジで技術を磨いた彼は、デビュー・アルバムのジャケット用に紋章を描き始めていた。ロゴは、4人のメンバーそれぞれのゾディアック・サインをモチーフにデザインされている。ジョン・ディーコンとロジャー・テイラーは2匹の獅子で、ブライアン・メイは蟹。マーキュリー自身は2人の妖精で表現しているが、乙女座をイメージしたものだと彼は主張している。上部には希望と復活のシンボルである不死鳥が大きく描かれているが、これはマーキュリーが卒業したセント・ピーターズ・スクールの紋章から借用している。ロゴの中心部にはエレガントな“Q”の文字が描かれ、当然その中には王冠が配置されている。

3. マーキュリーがデヴィッド・ボウイのためにステージを組み上げ、ヴィンテージのブーツを買い与えた

世界的にヒットした1981年の『アンダー・プレッシャー』でボウイとマーキュリーが共作したことは有名だが、2人の関係は無名時代の1960年代後半にまで遡る。当時少しだけ売れていたボウイが、イーリング・アート・カレッジでランチタイムの小さなライヴをブッキングされた。マーキュリーは喜んでボウイの荷物運びを手伝うなど、彼の後をついて回った。そこでボウイはマーキュリーに、何台かのテーブルを付けて簡易ステージを作らせたのだ。

それから間もなく、マーキュリーとロジャー・テイラーはケンジントン・マーケット内に屋台をオープンし、ヴィンテージの衣類を売り始めた。音楽活動の収入では生活が厳しかったのだ。「僕らはエドワード7世時代の古い服を着込んだ。怪しい業者からシルクのスカーフをどっさり仕入れ、アイロンでシワを伸ばして売ったんだ」とテイラーは、作家のブレイクに語った。ブライアン・メイ自身は、仕入れた衣類にそれほど興味を持たなかったことを覚えている。「フレッド(マーキュリー)は仕入れた大量のものを家へ持ち帰り、酷い布切れを引っ張り出して言うんだ。“この美しい服を見てくれよ! これは金になるぜ!”と言うから俺は言ったんだ。“フレッド、それはただのボロ布だぞ”」

マーキュリーとテイラーには商才がほとんどなかったため、通りの向かい側で衣類の屋台を仕切っていた親切なアラン・メアという男が、結局彼らを雇うことにした。「彼はいつでもてきぱき働き、とても礼儀正しかった」とメアは、BBCのドキュメンタリー番組『Freddie’s Millions』でマーキュリーの印象を語っている。「誰からも彼に対してクレームは出なかったし、彼の態度には全く問題がなかった。いつも少し遅刻して来たが、そんなことは問題にならなかった」

メアは、ボウイの初期のマネジャーと知り合いだった関係で、ある日、将来のスターマン本人が彼らの屋台に姿を現した。「『スペイス・オディティ』は売れたが、彼曰くまだ貧乏だった」とメアは、ブレイクの著書『Is This The Real Life』の中で述べている。「“それが音楽ビジネスだ!タダで持っていけ”と私が言うと、フレディがボウイに1足ブーツを見繕った。一介の店員だったフレディ・マーキュリーが、ポップスターのデヴィッド・ボウイが買えなかったブーツを奢ってやったんだ」

Translated by Smokva Tokyo

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