クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実

1985年7月13日、イギリス・ロンドンで行われたライヴ・エイドに出演したフレディ・マーキュリー(Photo by Peter Still/Redferns)

ダイアナ妃をお忍びでゲイクラブに連れ出したエピソードやセックス・ピストルズとの対立、マイケル・ジャクソンとのコラボレーション、そして秘密にされた埋葬地まで、クイーンのシンガーであるフレディ・マーキュリーの知られざる一生を追う。

「Lover of life, singer of songs」クイーンで時間を共にしたブライアン・メイによるシンプルな追悼の言葉は、“フレディ・マーキュリー”として世界的に知られる複雑な人物を的確に表現している。「悔いのない人生を送った彼が、この言葉に集約されていると思う」とメイは、BBCのドキュメンタリー番組で語っている。「彼は寛大で優しく、時には短気な人間だった。それより忘れてはいけないのが、彼が一生を捧げると決めていたもの。音楽を作ることだ」。

英国保護領だった東アフリカのザンジバルで生まれたフレディ・マーキュリー(本名:ファルーク・バルサラ)の溢れんばかりの才能は、彼のみなぎる活力や華麗さに決して引けを取らなかった。それらは全てクイーンの楽曲制作に注がれ、素晴らしいライブ・パフォーマンスの記録でうかがい知ることができる。生前、彼の持つ4オクターブの声域は、科学者たちもその複雑さや素晴らしさの秘密を明かそうと研究したほどで、通常のロックシンガーが出せる限界を超えていた。彼の死後は、その声はAIDSに苦しむ多くの人々の声となった。

フレディ・マーキュリーがこの世を去ってから25年を迎える2018年、マーキュリーが遺した知られざるいくつかのエピソードを紹介する。

1. クイーンの作品よりも前にザ・ロネッツやダスティ・スプリングフィールドのカヴァーをリリースし、ゲイリー・グリッターを模倣した

クイーンのレコード・デビューに先立ち、マーキュリーはバンドの2人の協力でソロ・レコードをリリースしたが、そこには思い上がった様子も見られた。1973年初頭、まだ駆け出しだったバンドは、ロンドンにあるトライデント・スタジオでデビュー・アルバムのレコーディングを行っていた。デヴィッド・ボウイやザ・ビートルズらも使用した最新機器の揃うスタジオだった。まだ無名に近かったクイーンは当然、ピーク時間を避けた午前3時〜7時の時間帯の使用のみが許された。「彼らにはいわゆる“ダークタイム”を割り当てられていた」とプロデューサーのジョン・アンソニーは、伝記作家マーク・ブレイク著『Is This the Real Life? The Untold Story of Queen』の中で証言している。「エンジニアが好みのバンドのプロデュースをしたり、従業員が好きに使えた時間帯だった」

ある晩、スタジオが空くのを待っていたマーキュリーの元に、トライデントのハウス・エンジニアをしていたロビン・ジェフリー・ケーブルがやってきた。ケーブルは当時、レコード・プロデューサーのフィル・スペクターによる有名な“ウォール・オブ・サウンド”スタイルの再現を試みていたが、クイーンのシンガーの声が、彼のプロジェクトに完璧にマッチすると考えたのだ。その話を受けたマーキュリーはブライアン・メイとロジャー・テイラーに演奏を依頼し、ロネッツの『アイ・キャン・ヒア・ミュージック』(当時ザ・ビーチ・ボーイズもカヴァーしていた)と、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作品でダスティ・スプリングフィールドのバージョンで有名な『ゴーイン・バック』をレコーディングした。

クオリティは十分だと判断したケーブルは、正式なリリースを提案した。マーキュリーは同意したが、クイーンのデビュー・アルバムの完成も間近だったため、混乱を避けるためにペンネームの使用を主張した。結局彼は、ラリー・ルレックスという風変わりな名前を選んだ。本人はゲイリー・グリッターへの“個人的なジョーク”だとしている。グリッターは当時の英国チャートに君臨していた。苗字の“ルレックス”は、グリッターをはじめグラム・ロックのスターたちが愛用したボディスーツに使われていた金属糸のブランドから借用された。



性犯罪により投獄され世間からの信用を失う数十年前、グリッターは多くのファンという武器を振りかざしていた。グリッター・ファンの誰もマーキュリーの繰り出すジャブなど気に留めなかった。彼らは腹いせにマーキュリーのレコードの購入を拒み、多くのDJは曲をかけるのを断った。ラリー・ルレックスの最初で最後のシングルは1973年6月の終わりにリリースされたものの、完全に失敗に終わった。その1週間後にリリースされたクイーンのファースト・アルバムの売れ行きは、ソロ・シングルよりはましだった。

マーキュリーはバンドに精力を注ぎ続けたものの、ラリー・ルレックスの失敗については、自分の主義に反するとして腹に据えかねていた。「素晴らしい作品だったと信じている」と彼は後に語っている。「実際に、どんなパフォーマーでもコピーされたら最高の栄誉のはずだ。相手を持ち上げるためのひとつの方法で、ただちょっとふざけただけだ。とにかく、そのどこに問題があるんだ? エルヴィス・プレスリー以降は皆パロディってことになるだろ?」

この時の失敗も、マーキュリーとケーブルの関係には影響しなかった。翌年のセカンド・アルバム『クイーンII』のレコーディング中、マーキュリーはエンジニアに、『ファニー・ハウ・ラヴ・イズ』で“ウォール・オブ・サウンド”スタイルを採り入れるよう依頼した。


Translated by Smokva Tokyo

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