ランDMCが語る1988年、時代を逆行しつつも貫いた信念

ーあの曲はもっと売れるべきだと感じていましたか?

そんなことはないよ。セールス面での成功は重要じゃなかったんだ。俺たちがやろうとしたのは、KRSワンやダディー・ケイン、エリック・B&ラキム、パブリック・エナミー、ディギン・イン・ザ・クレイツ、そういうライバルたちの度肝を抜いてやることだった。1988年当時、俺たちは誰からも敬われていたし、誰よりもすごいライブをやってたけど、シーンには次から次へと新たな才能が登場していた。正直、俺たちはやつらのことを脅威に感じてた。その時点では知名度も人気もまだまだ俺たちのほうが上だったけど、勢いという点では間違いなくやつらに分があった。

(EPMDの)エリック・サーモンとパリッシュ・スミスは、俺の息子みたいな存在だ。成功を実感し始めた頃のやつらの興奮ぶりときたら、微笑ましかったね。しょちゅうポケベルに「今すぐ話したいから電話よろしく!」ってメッセージを送ってきてたよ(笑)やつらは最高にイカした曲を次々に出してたし、セールスも好調だった。それは俺にとっても嬉しいことだったけど、同時に焦りを感じてたのも事実だ。やつらと電話で話した後は、思わず「このままじゃやべぇな」なんて呟いたもんさ。うかうかしてるとやつらに追い越される、そう感じてたんだよ。

「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」は、そういう状況にいた俺たちのマニフェストだった。才能に満ち、大金を稼ぎ、チャートを制覇し、自らメガホンをとるMC&DJと言えば俺たちしかいない、そういうメッセージだったのさ。

あの曲で特筆すべきことは、俺とランはそれぞれ別のビートにヴォーカルを乗せたってことだ。それが「ファンキー・ドラマー」だったか、例のビート(「アシュリーズ・ローチクリップ」のブレイクを口ずさんで)だったか、はっきり覚えてないんだけどな。ヴォーカルを録った後に、ジェイがそのネタを使って「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」のビートを組んだんだ。「ライムのためのビート」っていうタイトルは、曲が生まれたプロセスを示してるってわけさ。

ーあの曲で、彼は見事なスクラッチを披露していますね。

コンセプトについて知らせてたわけでもないのに、ジェイは俺とランのアカペラを見事に調理しちまったんだ。曲の空白部分を埋める上で、まさに理想的なやり方だった。あの曲を完成させた時、俺たち全員が大きな手応えを感じてた。たとえそれが大ヒットするような曲ではないと分かっていてもね。KRSワンがどれほど優れていようが関係ない。スリック・リックが出したばかりだった「チルドレンズ・ストーリー」には、さすがに衝撃を受けたけど、俺たちは先駆者として、やつらの後を追うような真似をするわけにはいかなかった。猛烈な勢いで迫ってくるライバルたちを蹴散らすか、最悪でも引き分けに持ち込む、そういうスタンスだったんだよ。あの曲の一番の魅力はレトロなところさ。「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」には、1980年や81年のヒップホップのヴァイブがあった。コールド・クラッシュやトリーチェラス・スリーのようなスタイルと、モダンなビートとスクラッチを融合させた、まさに画期的な曲だったんだよ。

ー その通りだと思います。だからこそ、あの曲は無数のアーティストにサンプリングされてきたのでしょう。

間違いないな。自慢やエゴ、ハードなリリックとビート、そして一流のDJによるスクラッチまで、あの曲にはヒップホップのあらゆるエッセンスが詰まってる。1988年はヒップホップにとって素晴らしい一年だった。俺たち、エリック・B&ラキム、EPMD、KRSワン、パブリック・エナミー、まさに黄金時代さ。あの頃は5万ドルのサウンドシステムを積んだシボレーのK5ブレザーに乗ってて、「ドント・ビリーブ・ザ・ハイプ」を爆音で鳴らしながらニューヨークの街を走り回ったもんさ。「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」を出す前のことだけど、俺たちのショーのサウンドと照明をやってくれてたラニー・レイとよくつるんでてさ。ツアーから帰ってくると、スーツケースを自宅に放り込んでキャデラックに乗り込み、洗車で車をピカピカにしてからジャマイカアベニューまで行って安物の酒で乾杯するんだけど、その途中で必ずレイを拾ってた。野心家のランとジェイは成功にすごくこだわってたけど、ヒップホップはとにかく楽しむものだっていうのが俺の考え方だったから、のんびり屋のレイとはウマが合ったんだ。ある日運転する俺の隣で、やつはいきなりこう言った。「おいD、ぶっちゃけお前よりイカしたやつを俺は知ってるぜ」やつはいつも冗談ばっか言ってたから、俺はいつものように応じてやった。「何だとこの野郎、俺は天下のキング・オブ・ロックだぜ!」ってな感じでさ。その時にやつが引っ張り出してきたテープに入ってたのが、ビッグ・ダディ・ケインの「エイント・ノー・ハーフ・ステッピン」だった。「ン〜ン〜ン〜」っていう例のアレに続いて、ビートのドロップと同時にケインが「ラッパーどもが喧嘩を売ってきやがる」とかます。そこにあのフックだ(曲を口ずさむ)。俺はレイに、今すぐ俺の車から降りろと言った。それをいつもの冗談だと思ったやつは、ヘラヘラ笑いながら「降りろだって?本気で言ってるんじゃないだろ?」なんて言ってきた。やつに聞いてみるといいよ。俺はマジでやつを車から降ろし、クイーンズのFrankfield Boulevardに置き去りにしたんだ。それから6時間の間、俺は「エイント・ノー・ハーフ・ステッピン」をリピートしながら、近所を延々とドライブし続けた。ようやく車を止めた時、俺は思わずこう呟いた。「とんでもねぇのが現れやがった。俺たちの時代もいよいよ終わりか」

そんな状況だったからこそ、俺たちは誰もやってない何かに挑戦しようとした。それが俺たちの生き残る術だったんだ。当時は誰もがジェームス・ブラウンのサンプルを使ってファンクやジャズ調のトラックを作ってたけど、俺たちはロックすることにこだわった。そしてその目論見は見事に成功したんだよ。すごい才能が次々に現れた88年という年に、ランDMCは「ビーツ・トゥ・ザ・ライム」で存在感を示してみせたんだ。

Translated by Masaaki Yoshida

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