R&B界における最重要プロデューサー、その歩みと静かなる情熱

「俺が音楽業界に足を踏み入れた当時、プロデュース業は肉体労働も同然だった」と語るウォーレン・”オーク”・フェルダー(Photo by Rolling Stone)

R&B不毛の時代に頭角を現し、若手シンガーたちのヒット請負人となったウォーレン・”オーク”・フェルダーの軌跡。

「R&Bのルネッサンスが到来する、俺はそう確信してるんだ」


作曲からプロデュースまで務めるウォーレン・”オーク”・フェルダーは、音楽におけるジャンルの隆盛と衰退について、興味深い持論を持っている。「あらゆるタイプの音楽はシンプルなコンセプトと共に生まれる。それは時間の経過と共に複雑化していき、その傾向はやがてピークに達する。そういう状態で生まれる音楽っていうのはリスナーを度外視した、作り手の自己満足的なものなんだ」彼はそう話す。「そういうレベルに達したまま、後戻りという道を選ばなかった音楽もある。ジャズなんかがそうだけど、それはもはやポップカルチャーの一部じゃないんだ。音楽的影響力について否定する気はないけど、ステイプルズ・センターを2万人の観衆で埋められるジャズのアーティストを俺は知らない」

そう話した後、オークはこう付け加えた。「でも中には、そういう状態からリセットを図る音楽もある」

彼の主戦場であるR&Bは、まさにそういう道を選んだと彼は主張する。2005年にクリス・ブラウンのヒット曲を手がけた彼は、R&B冬の時代と言われた以降の10年間で着実にキャリアを積み、同ジャンルにおける最重要プロデューサーとしての地位を確立した。ニッキー・ミナージュ、K・ミシェル、アレッシア・カーラ等のブレイクに大きく貢献した彼の手腕には、リアーナやアリシア・キーズ等の大物たちも信頼を寄せる。若手アーティストのメジャーデビュー作(ケラーニの『スウィートセクシーサヴェージ』等)を多数手がけ、ポップシンガー(デミ・ロヴァート等)を本格的R&Bシンガーへと生まれ変わらせるなど、彼はストリーミングがTop40を大きく左右する時代に見事に順応してきた。

何もかもが多様な音楽業界においても、彼のバックグラウンドは特異だ。トルコで生まれ育った彼は、イスタンブールを拠点にフォークやポップ、さらには「風変わりなラップグループ」等を手掛けていた彼の叔父から、プロデュース業の基本とスタジオの使い方について教わったという(彼のニックネームはトルコ語での本名からきている)。当時MTV Europeでヘビーローテーションされていたレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、メタリカ、パンテラ等のロックを聴いて育ったという彼は、音楽について貪欲に学び続けた。そんな彼が進学先に選んだのは、アメリカのジョージア工科大学だった。

「これまでも、そしてこれからもずっと、あの街はアーバンカルチャーの発信地であり続ける」彼はキャリアの土台となる知識を育んだアトランタについてそう話す。「俺の知る限り、黒人系トルコ人は俺を含めて8人しかいなかった」彼はそう話す。「幼い頃からずっと、自分の人生には何かが欠けているような気がしてた。アメリカに移住してから、俺はラップやR&B、そしてゴスペルなんかに興味を持ち始めたんだよ」

そういったジャンルで勝負する上で、オークは堅実なアプローチを選んだ。「宝くじみたいなもんだからね」彼はそう話す。「俺は当選を願って宝くじを買うんじゃなく、むしろ宝くじを売る側に回ろうと思った。俺はカレッジ・パークに安く借りられるスタジオをオープンさせて、500ドルで作曲からプロデュースまで請け負うっていうビジネスを始めたんだ」当時彼がデモを手がけたスターリング・シムズは、アトランタのシーンを世界中に知らしめたLaFace RecordsのL.A.リードに見初められ、後にレコード契約を果たしている。オークの楽曲をいくつか買い取ったリードはその手腕を評価し、ロイドやマリオ、マーシャ・アンブロージアス等の作品で彼を起用した。

しかし彼がキャリアの第一歩を踏み出した当時、音楽業界は長引く冬の時代を迎えようとしていた。「当時の音楽業界はまさに不毛の地だった。横行する違法ダウンロードへの対策として、レコード会社が自ら偽の音源をネット上に流すような状況だった」彼はそう話す。「俺がこの世界に足を踏み入れた当時、プロデュース業は肉体労働も同然だった。何曲かヒットを飛ばしても、俺はオンボロの白いシボレーのコルシカに乗ってた」

Translated by Masaaki Yoshida

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