クインシー・ジョーンズを物語る26つの真実

5. ヨーロッパ【Europe】

1952年、未熟なトランペッターだったジョーンズは、ライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ・ツアーに参加し、初めて世界への扉を叩いた。母国での人種差別問題に直面してきた彼にとって、目からうろこの落ちるような経験だった。さらに1957年にディジー・ガレスピーとヨーロッパを回ったことで、彼の視野はさらに広がった。1950年代、ジョーンズはほとんどの時間を海外ツアーに費やすこととなる。その経験のおかげでジョーンズは自分の夢を世界へと向けるようになり、地球上で最も成功したプロデューサーになれたのだ。

6. フランク・シナトラ【Frank Sinatra】

1950年代と60年代、フランク・シナトラが、ジョーンズをライヴとレコーディングの両方におけるアレンジャーやコンダクターに採用したことで、ジョーンズは大きな成功を収めた。そうして若きジョーンズは、ネルソン・リドルやビリー・メイらシナトラのアレンジャー=コンダクターのそうそうたるメンバーの仲間入りをした。彼はまた、シナトラのアルバム『LA・イズ・マイ・レディー』をプロデュースし、アルバム『オール・ブルー・アイズ・イズ・バック』への想いを80年代に再浮上させた。同アルバムは、ジョーンズのレーベルであるクウェスト・レコーズからもリリースされた。


フランク・シナトラとクインシー・ジョーンズ(Photo by Frank Sinatra Enterprises/Netflix)

7. グラミー賞【Grammys】

ジョーンズは1961年に初めて、アルバム『グレイト・ワイド・ワールド・オブ・クインシー・ジョーンズ』で、グラミー賞の『ベスト・ジャズ・パフォーマンス・ラージ・グループ』にノミネートされた。それから3年後、カウント・ベイシーの『アイ・キャント・ストップ ・ラヴィング・ユー』でジョーンズはグラミー賞を初受賞した。以来ジョーンズは2018年までに27の賞を受賞しているが、これはアリソン・クラウスと並び存命のアーティストとしては史上最多の記録だ。1992年、ジョーンズは最高の栄誉である『特別功労賞生涯業績賞』も受賞している。

8. ヘイ・ナウ・ヘイ(ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・スカイ)【Hey Now Hey (The Other Side of the Sky)】

アレサ・フランクリンが、1973年にアルバム『ヘイ・ナウ・ヘイ(ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・スカイ)』で新たなスタイルに挑戦した時、彼女の傍らにはジョーンズがいた。今は亡きクイーン・オブ・ソウルは、斬新さを備えたアルバムのプロデュースを、ジョーンズに依頼した。特にファンキーでもブルージーでもない同アルバムは、フランクリンの音楽や表現方法の幅を広げた。ここでジョーンズはポップ・アイコンの再生方法を身につけ、それから間もなくマイケル・ジャクソンと出会うことになる。

Translated by Smokva Tokyo

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