名曲誕生の舞台裏、突然の解雇…業界屈指の名ドラマーがエルトン・ジョンと共に歩んだ50年

「葬送〜血まみれの恋はおしまい」のレコーディングで印象に残っていることは?

メドレーになってるあの曲のレコーディングのことはよく覚えてるよ。僕のドラムの音を出すには、すごく大きくて天井の高い部屋じゃなきゃだめなんだ。ドラムのすぐそばにマイクを立てつつ、天井につくくらいの位置にアンビエンスマイクを設置する必要があるからね。そうすることで、自然な残響音を伴うビッグなドラムサウンドが録れるんだ。僕のドラムはいつもそうやって録るんだよ。メドレーにする上で、別々に録った曲を後から編集で繋ぎ合わせるっていうやり方は避けたかった。それじゃ自然な流れが生まれないからね。ただあの曲は長尺で構成も複雑だったから、納得のいく演奏ができるまで、何度かテイクを重ねないといけなかった。

カリブーで録った「幼き恋の日々」と「ベールの中の遠い想い出」もメドレーだね。テンポも曲調もまったく違うんだけど、曲間を設けないことにしたんだ。この時も別々のテイクを後から繋ぎ合わせるつもりはなかったから、2曲を続けて演奏した。「幼き恋の日々」を録りながら、その後「ベールの中の遠い想い出」が続くのかと思うと、ちょっと気が遠くなりそうだったけどね。かなり大変なセッションだったことは事実だけど、その甲斐あってマジックを起こせたと思ってる。忘れられない思い出のひとつだね。今でもあの曲をライブで演るのは大好きだよ。

ー「皆で書いた曲を弾いてみる/言葉にできない不思議な感情が僕を支配していく」と彼が歌う部分は、本当に鳥肌ものですよね。

同感だね。僕が描写的なドラマーであろうとするのは、まさにそういう理由からなんだ。あの曲で彼が「人気のない地下鉄の窓を滴り落ちる」って歌う部分で、僕は雨の音をイメージしながらシンバルを叩くんだ。優れた歌詞っていうのは、ミュージシャンからそういう描写的なパフォーマンスを引き出すんだよ。あの曲はピアノのサウンドも素晴らしいね。彼と50年近くも一緒に活動することができて、僕は本当に恵まれてると思うよ。

ー代表作のひとつである『キャプテン・ファンタスティック』発表後、エルトンはあなたを含むバンドのメンバー全員を解雇しました。どういう状況でその知らせを聞かされたのでしょう?

彼の事務所から電話があって、おもむろに「エルトンは異なる方向性を模索することにした」って言われたんだよ。不貞腐れてても仕方ないから、そのときから僕は自分なりにキャリアを重ねていくことにした。でもこうして戻ってきて、今も一緒に演奏できてることをうれしく思ってるよ。

ー解雇を言い渡されたときは、やはりショックでしたか?

そうだね……。でもクヨクヨしてないで、前を向いて進んでいくと決めたんだ。

ー実際には他にも理由があったわけですが、あなた方の解雇と同時に彼のレコードの売り上げが急落したのは印象的でした。

なんでだろうね。彼に直接聞いてみるといいよ。

ーあなたは自身のキャリアをスタートさせ、1978年には「涙のダンシング・シューズ」がヒットしました。あれは思いがけないことでしたか?

そうだね、いい経験だったよ。実はあの作品を出す前に、アメリカのマーブルズっていうバンドのためにビージーズが書いた「Only One Woman」っていう曲を、カリブー・ランチでバンドのメンバーと一緒に録ったんだ。僕はあの曲がすごく気に入ってたから、カリブーでのレコーディングの休憩中に、録ってみようぜって提案したんだ。レコード会社も乗り気でシングルとして出すことになって、アメリカじゃ結構売れたんだよ。その後僕はアトランタのBang Reacordsと契約して、「涙のダンシング・シューズ」をレコーディングしたんだ。

あの曲の出来にはすごく満足してた。その後「悲しきソープ」とか、何曲か続けてレコーディングした。アルバムの反響には素直に喜んでたけど、ディーがツアーに出たがったときは困ったよ。僕はフロントマンとしてステージに立つ気はなかったからね。

Translated by Masaaki Yoshida

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