レッド・ツェッペリンが誕生するまでの物語

それから約1週間後、プラント、ペイジ、ボーナム、ジョーンズは、グラッドサクセでの初ライヴへ向けて旅立った。「ジミー・ペイジは、ほかの3人と本当に息が合っていた」と、ベント・ラーセンはレビューに書いている。「彼らは本当に上手くやった」というラーセンは、「ニュー・ヤードバーズは少なくとも旧ヤードバーズと同レベルに達していると言える」という、後から考えるとおかしくなるほど控えめな表現で記事を締めくくっている。

「最初のライヴは何から何まで記憶に残っている」と1990年のインタヴューでグラントは語っている。「とてもエキサイティングで、そこに関われたことはファンタスティックな経験だった。その後、とてつもない枚数のレコードを売ることになろうとは夢にも思わなかったが、僕は彼らが史上最高のバンドになれると確信していた」

バンドは次の晩もデンマークでライヴを行い、その数日後にはスウェーデンへ行き、1968年9月24日にノルウェーのオスロで短いツアーを終えた。「全てがバンドのトレードマークとしてしっくり来ていた」とプラントは1975年、キャメロン・クロウとのインタヴューでこの初期のツアーについて語っている。「自分たち自身や観客の盛り上げ方を学び、ライヴの後でより多くの人たちをホテルへ引き連れていく方法を身につけた」

ロンドンへ帰った後も彼らには息つく暇もなかった。いくつかのレコード・レーベルへテープを聴かせるため、ペイジはすぐさまスタジオ入りして新曲をレコーディングしたがった。「自分がこのバンドで何をしたいかは明確だったので、音楽的な主導権はしっかりと握っておきたかった。実際、アトランティック・レコードへ行く前に僕が資金を出してファースト・アルバムのレコーディングを済ませていた」とペイジは、ブラッド・トリンスキー著『カンバセーションズ・ウイズ・ジミー・ペイジ』の中で語っている。

「アルバムを製作するために前借りする、というありきたりの話ではない」と彼は続ける。「僕らは完成したテープを持ってアトランティック・レコードを訪れたんだ。バンドの方向性が明確だったことによるもうひとつの強みは、レコーディングにかかるコストを最低限に抑えられたことだ。ファースト・アルバムは30時間程度で完成した。本当だ。もちろん、僕が費用を出していたからね」とペイジは言う。レコーディング・セッションの費用は約1782ポンド(約26万円)だったと言われている。アトランティック・レコードは、20万ドル(約2240万円)で彼らと契約した。当時、ロック・バンドに支払われた前金としては史上最高額だった。

それから先は、彼らの言う通り、歴史上の出来事だ。初の米国ツアー中の1969年1月、ファースト・アルバム『レッド・ツェッペリン』がリリースされた。アルバムは数百万枚を売り上げ、爆発的な成功を収めた。さらにその後10年に渡り世界に君臨するバンドとしての地位を揺るぎなきものとした。ペイジによる賭けは成功したのだ。

「人生の賭けに出ることを恐れる人も多いが、人生にはものにすべき多くのチャンスが転がっている」とギタリストは、ツェッペリンの商業的、文化的な絶頂期についてクロウに語っている。「未知のものには惹かれるが、用心は怠らない。やみくもに足を踏み入れることはない」

Translated by Smokva Tokyo

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