ジャニス・ジョプリン、『チープ・スリル』に関する10の知られざる真実

2. 『チープ・スリル』はライヴ・アルバムになる予定だった。

ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーによるバンド名を冠したスタジオ・デビュー・アルバムは、1967年8月にメインストリーム・レコードからリリースされたが、明らかに売上不振だった。ジョプリン自身も「酷いレコード」と表現し、チャートの最高位も60位だった。ビッグ・ブラザーの能力を考慮すると、メジャーレーベルでのデビュー・アルバムはライヴ・アルバムの方がよいだろうと思われた。「彼らは演奏もさることながら、オーディエンスの興奮を煽るライヴも好評だった」と、アルバムのプロデューサーを務めたジョン・サイモンが2015年に証言している。「ライヴでの興奮を活かすため、バンドはライヴ・アルバムを強く望んでいた」

リモート・レコーディング・コンソールをレンタルし、デトロイトのグランド・シアターで1968年3月1日から始まったライヴを2回分レコーディングした。しかし残念ながら、いくつかの問題が発生してしまった。まず、彼らのライヴ・パフォーマンスの耳をつんざく大音量により、レコーディング・メーターはずっとレッドゾーンを指していた。さらに、オーディエンスからのリアクションが全くなかった。「女性があんな風に歌うのを誰も経験したことがなかったんだ」とエンジニアのフレッド・カテロは、アリス・エコースルによるジョプリン伝『Scars of Sweet Paradise』の中で述べている。



「曲が終わるたびにオーディエンスは“はぁ?”という感じでノー・リアクションだった」 さらにプロデューサーのサイモンにとって悪いことに、バンドの“雪崩のように巻き起こるエネルギー”も、彼が把握した“多すぎるミス”を覆い隠すまでに至らなかった。プロデューサーは、音源をニューヨークにあるコロンビア・レコードのスタジオBへ持ち込み、音外しやコードの間違い、さらに歌詞の誤りに外科手術を施して修正しようとした。しかしスタジオで手を加えるにあたり、音楽以外のところで問題が発生した。「“ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーがライヴ・レコーディングを行った”という噂がすぐに広まり、ライヴ・アルバムへの期待が大きく高まってしまった」とサイモンは振り返る。「ファンをがっかりさせたくなかった」という彼らは、ライヴ風のスタジオ・アルバムの製作を試みた。

3. バックに聞こえるオーディエンスの歓声は、ジョプリンが人生最後に食事したバーニーズ・ビーナリーで録音された。

サンフランシスコ人による渦巻くサイケな長旅の興奮を、風通しが悪く面白味のないミッドタウン・マンハッタンのレコーディング・スタジオの中で再現することは、ひとつの難題だった。スタジオでトラックごとにレコーディングする従来の方法は、バンドの好む音楽の作り方に反した。「普通のレコーディング方法は、全てが完全に隔離されていた」と、ベーシストのピーター・アルビンは『Scars of Sweet Paradise』の中で証言する。「皆ヘッドホンを付け、ヴォーカリストは防音のヴォーカル・ブースに入る。ドラマーはどうしてよいかわからず途方に暮れる。それではバンドの共同作業によるレコーディングとは言えない」とアルビンは言う。ライヴの雰囲気を出すために、仕切りカーテンを低くし、スポットライトやバンドのPAシステムまで導入し、ライヴ・ルームの中にステージを設置した。さらなるライヴらしさを演出するためにサイモンは、スタジオのスタッフ、エンジニア、マネジャーたちを動員してオーディエンス役に見立て、彼らの歓声を録音したテープ・ループを用意した。「タンバリンやホイッスルなどを持たせ、“ここに立って適当に歓声や叫び声を上げ、タンバリンを叩き、ホイッスルを鳴らしてくれ”と皆に指示した」と、カテロは振り返る。



アルバムのクレジットには、“ライヴ音源”は、ビル・グラハムがサンフランシスコに所有していた伝説のフィルモア・オーディトリアムでレコーディングされたことになっているが、アルバムで唯一のライヴ曲『ボールとチェーン』は、グラハムがサンフランシスコに所有する別の施設ウィンターランド・ボールルームで行われた。9分間の同曲で聴けるギター・ソロは、スタジオで別途録り直しされている。「アルバムのリアルなコンセプトを思いつき、実現したジョン(サイモン)は素晴らしかった」とドラマーのデイヴ・ゲッツは、前出のエコールによる著書の中で述べている。「アルバムを聴く人たちが、サンフランシスコのボールルームにいるような感覚になれる」 ゆったりした『タートル・ブルース』には、ハリウッドのサンタモニカ大通り沿いにあるレストランバー、バーニーズ・ビーナリーで録音されたアンビエンス・ノイズが加えられている。ジョプリンは同店の常連で、1970年10月3日に宿泊先のランドマーク・ホテルへ戻る直前に立ち寄り、人生最後の食事をした。その後の真夜中過ぎ、彼女はホテルの部屋でヘロインを過剰摂取したと思われる。

4. アーマ・フランクリンはジョプリン版の『心のカケラ』が自分の曲だとはわからなかった。

アルバム『チープ・スリル』に収められた7曲のうち3曲はカヴァー・ソングで、ピーター・アルビンに言わせると“ビッグ・ブラザー風”にアレンジされたものだった。『サマータイム』は大きく変更が加えられ、マイナーキーで書き直したビッグ・ママ・ソーントンの『ボールとチェーン』は、無限の広がりを感じさせた。カヴァ―曲の中で最も注目すべきは『心のカケラ』で、バンドの最初で最後のトップ20ヒットとなった。



同曲は、プロデューサーでバング・レコードの創業者であるバート・バーンズと、共同作業者のジェリー・ラゴヴォイによって書かれた作品だった。当初バーンズは、当時バング・レコードに所属していたヴァン・モリソンに歌わせようとしたが、モリソンが拒否したため、アレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンに回された。当時のフランクリンは、1960年代初頭に数枚のシングルをリリースしたもののぱっとせず、音楽活動からほとんど引退していた。バーンズが彼女を説得して音楽へと引き戻す1967年まで彼女は、IBMのアドミニストレーターとして働いていた。やや崩したカリプソとしてアレンジされ、高音のソウルフルなヴォーカルがフィーチャーされたオリジナル・バージョンの『心のカケラ』は、ビルボード・チャートの62位にランクした。フランクリンによるフル・アルバムも企画されていたが、1967年12月30日にバーンズが心臓発作で亡くなりレーベルが混乱したため、実現することはなかった。

オリジナルの『心のカケラ』を称賛していたビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーのメンバーたちは、同曲を自分たちのユニークなスタイルに合わせたサイケデリック・バージョンにしようと思い立った。「アーマ・フランクリンに似せたくはなかった」とアルビンは後に語っている。「アーマのバージョンには、我々にはない優美さとミステリアスさがあった」 ジョプリンのソウルフルなシャウトを前面に出したビッグ・ブラザー・バージョンは、商業的にオリジナルを上回り、多くの人たちは『心のカケラ』といえばビッグ・ブラザーを思い浮かべるだろう。「ジャニスの歌うバージョンを初めてカーラジオで聴いた時、正直に言ってそれが自分の歌った曲だとはわからなかったわ」とフランクリンは、1973年にブルーズ&ソウル誌のインタヴューで語っている。「もちろん、曲が注目されてオンエアされ、彼女が売れたのは素晴らしいこと。でも彼女のバージョンは私のものとは全く違っていたから、腹も立たなかったわ」

Translated by Smokva Tokyo

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