ローリング・ストーンズを支えた名プロデューサーの知られざる15の真実

1969年ロサンゼルス、キース・リチャーズとミック・ジャガーとプロデューサーのジミー・ミラー(Photo by Robert Altman/Michael Ochs Archives/Getty Images)

バンドと共にローリング・ストーンズの数々の名曲を生み出してきたプロデューサーのジミー・ミラー。『ホンキー・トンク・ウィメン』でカウベルを叩き、60年代末から70年代初頭におけるバンドの代表作を手がけた、彼の功績を振り返る。

ちょうど50年前にリリースされたザ・ローリング・ストーンズの『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』が、(名目だけではあるものの)キース・リチャーズのお抱えの庭師にインスパイアされて生まれたことは広く知られている。2016年の夏には、冒頭のラインに登場する「クロスファイア・ハリケーン」という言葉が、FBIによる大統領選でのドナルド・トランプとロシアの癒着に関する捜査のコードネームとなり、歴史に残るクラシックにまつわる新たなエピソードとなった。しかしそれも、バンドの代表曲のひとつである同曲の誕生に大きく貢献したプロデューサー、ジミー・ミラーが残したインパクトには遠く及ばない。

同曲が生まれたのは、かつての輝きを失ったとして批評家だけでなくファンからも酷評された、『サタニック・マジェスティーズ』の発表から5ヶ月後のことだった。同作について、ジョン・ランドーはローリングストーン誌でこう記している。「文句無しに素晴らしい部分も存在するものの、『サタニック・マジェスティーズ』はローリング・ストーンズが築き上げてきたものを無に帰す可能性をはらんでいる。彼らはバンド本来の魅力を自ら放棄し、安易なやり方で時代に迎合してしまった。自分たち以下の存在に感化されて生まれた本作では、イノベイターであろうとする熱意だけが虚しく空回りしてしまっている」同作について、彼はこうも評している。「お粗末なプロダクションはすべてを台無しにしてしまっている」

評論家の意見に耳を傾けるまでもなく、自分たちの置かれた状況をよく自覚していたバンドは、ある人物に協力を求めた。その相手はジャック・フラッシュではなく、ストーンズがオリンピック・スタジオのAスタジオで『サタニック・マジェスティーズ』を録っていた時に、隣のBスタジオでトラフィックのデビューアルバムをプロデュースしていた、ブルックリン出身のジミー・ミラーだった。そのタッグが生んだ最初の曲、それが『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』だった。

ミラーがプロデュースを担当した『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』『スティッキー・フィンガーズ』『メインストリートのならず者』『山羊の頭のスープ』の5作で、両者はバンドの黄金期を築いた。最初の4枚はバンドの最高傑作であるばかりでなく、ロック史に燦然と輝く金字塔となった(ローリングストーン誌による史上最高のロックアルバムランキングでは、それぞれ58位、32位、64位、7位にランクインしている)。「今までに仕事した中でも、ジミー・ミラーは最もウマが合ったプロデューサーの1人だった」キース・リチャーズは『アコーディング・トゥ・ザ・ローリング・ストーンズ』でそう述べている。「プロデューサーの鏡のような人物だった彼は、ストーンズというバンドの扱い方をよく心得ていて、メンバー全員の力を存分に引き出してくれた。ミックとも深い部分で心を通い合わせていた」

ジミー・ミラーはストーンズに、2つの大きな変化をもたらした。彼はまず、バンドにスタジオであれこれと実験するよう促した。モノラルのカセットに録った『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』のデモを聴いた時、リチャーズはテープのオーバーロードによるアコースティックギターの自然な歪みが気に入っていると語った。そこでミラーは、ギターを同じやり方でレコーディングするよう提案した。「おかしな話だよね」ミラーは『Inside Tracks』の著者、リチャード・バスキンにこう語っている。「莫大な金を払ってトップクラスのスタジオを抑えたっていうのに、20ポンドのカセットレコーダーを使おうっていうんだからさ」

ミラーによるもうひとつの功績、それはバンドのロック魂に新たなグルーヴを吹き込んだことだ。「ジミー・ミラーは腕利きのドラマーだった」キース・リチャーズは自伝『ライフ』でそう綴っている。「彼はグルーヴが何たるかを熟知していた。グルーヴを見極め、テンポを決めて…彼との作業はスムーズでとてもやりやすかった」デモの段階ではフォーク調だった『悪魔を憐れむ歌』は、ミラーが得意とするサンバのリズムを取り込むことで、驚くべき進化を遂げた。

1.ジミー・ミラーの名が知れ渡るきっかけとなったのは、若き日のスティーヴ・ウィンウッドを擁するスペンサー・デイヴィス・グループの曲だった

ミラーはレコード・コレクター誌のニーナ・アントニアにこう語っている。「クリス・ブラックウェル(当時のアイランド・レコードの重役であり、スペンサー・デイヴィス・グループのマネージャーでもあった)から、SDGの『愛しておくれ (ギミ・サム・ラヴィン)』をプロデュースしてみないかって言われたんだ。あれは僕のキャリアの第一歩となっただけでなく、バンドにとって初のアメリカでのヒット曲になった」

ニューヨークとニュージャージーのR&Bグループ等をプロデュースしていたミラーの手腕を、ブラックウェルは高く評価していた。『愛しておくれ』をアメリカでヒットさせるべく、彼はミラーをロンドンに呼び寄せてリミックスを依頼した。イギリスとアメリカでそれぞれ異なるヴァージョン(SpotifyではUSバージョンは「シングル・ミックス」と銘打たれている)が制作された同曲は、後に彼がストーンズにもたらすものの青写真だったと言える。ミラーは同曲にゴスペル調のバッキングヴォーカルを加え、テンポを上げることでグルーヴを生み出し、パーカッションを追加し、ライブのような臨場感を与えてみせた。同じくヒットを記録したバンドの次のシングル『アイム・ア・マン』では、ミラーはプロデュースのみならず作曲にも携わっている。ミラー曰く「レイ・チャールズの面影を感じさせた」というウィンウッドは、トラフィックの最初の2枚のアルバム、そしてブラインド・フェイスの唯一のアルバムのプロデュースをミラーに依頼した。

Translated by Masaaki Yoshida

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