ヴァン・モリソンの名盤『アストラル・ウィークス』に秘められたミステリー

このような環境の下で逃亡生活を送っていた1968年、モリソンは酒に浸り、ウルフのラジオ深夜番組へブルーズのオールディーズをリクエストしていた。そして、後に『アストラル・ウィークス』へとつながる断片的な詩を書き溜めた。彼は地元の若者たちを募ってバンドを結成し、地元のスケートリンクや高校の体育館でコンサートを行った。ワーナー・ブラザース・レコードのジョー・スミスは、どのようにしてモリソンの周辺にいたギャングたちを追い払ったかを証言している。スミスは2万ドルの現金が詰まったバッグを持ち、荒れ果てた倉庫へと出かけていったのだ。「私はサイン入りの契約書を手にすると、その場を急いで逃げ出した。そうでもしないと頭を殴られて契約書を奪い返された上に、現金も失いそうだった」



ついにモリソンはある晩、ニューヨークのスタジオへ楽曲を持ち込んだ。一緒にスタジオ入りしたプロのジャズ・ミュージシャンたちは、彼のことを全く知らなかった。ミュージシャンたちにとっては、いつもの仕事のひとつで、ギタリストのジェイ・バーリナーはその日、ノグゼマ(スキンケア製品)やプリングルズ(スナック菓子)のコマーシャルのジングル製作を行っていた。モリソンは自己紹介もせずにヴォーカル・ブースに入り、ギターを弾き始めた。「彼は妙な奴だった」とベーシストのリチャード・デイヴィスは言う。「僕らはヴァンと全く話さなかったし、彼も僕らに話しかけることはなかった」

しかし、モリソンとミュージシャンたちは、それまでにない神話を作り上げた。『マダム・ジョージ』と『サイプラス・アヴェニュー』では子供時代の悲しみを歌い、『アストラル・ウィークス』と『スリム・スロー・スライダー』で死を、『スウィート・シング』と『ビサイド・ユー』では愛を表現した。唯一の駄作は『若き恋人たち』で、当然ながらモリソンは、ニュー・アルバム『ユーアー・ドライヴィング・ミー・クレイジー』の中で同曲をリメイクしている。これらの曲に命を吹き込んだのは、モリソンの特徴的なヴォーカルと、コニー・ケイのブラシ・ドラム、バーリナーのギター、ウォーレン・スミス・ジュニアのビブラフォン、そしてとりわけデイヴィスのスタンドベースが生み出す、ゆったりとしたグルーヴだった。「息を吸って、息を吐く」とモリソンが歌うように、メンバーの息が合っていた。

『アストラル・ウィークス』はチャートやラジオを賑わせることなく、1968年11月にリリースされると間もなく消え去った。長年に渡りこのアルバムは伝説上の存在で、音楽よりも噂だけが流れていた。店頭にもアルバムは並んでおらず、ほとんどの場合ミックス・テープの形で人から人へと伝わった。ローリングストーン誌が1987年の“過去20年間における最高のアルバム”に、『アストラル・ウィークス』を選んだ時、ほとんどの読者は過去にこのアルバムを聴く機会すらなかった。『アストラル・ウィークス』は、ブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』とザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』に挟まれ、第7位にランクインした。そのような状況だったが、伝説は決して消え去ることはなかった。なぜなら、このアルバムを聴いた誰もが必ず、他の人へ伝えずにはいられなかったからだ。

モリソンはボストンを離れ、妻と共にウッドストックへと移った。彼は妻を“ジェネット・プラネット”と呼んだが、彼女曰く「たぶん語呂がよかったから」だという。モリソンは次のアルバム『ムーンダンス』でサウンドを変えた。しかしそれ以降モリソンは、『ヴィードン・フリース』や『セント・ドミニクの予言』のように、繰り返し“アストラル”の精神に立ち返っている。これまで、レスター・バングスの1978年のエッセー、クリントン・ヘイリンの伝記『キャン・ユー・フィール・ザ・サイレンス?』、グレイル・マーカスによる2011年のモリソン論『ホエン・ザット・ラフ・ゴッド・ゴーズ・ライディング』など、多くのライターたちが『アストラル・ウィークス』を研究してきたが、ウォルシュは推理小説的なアプローチで挑んだ。モリソンは相変わらず口を開かない。彼はアルバムについて説明しようとしたこともない。おそらく彼自身も我々同様、ミステリアスだと思っているのだろう。モリソンはかつて、楽曲は「ただ流され、通り過ぎていくだけ」と述べている。『アストラル・ウィークス』を聴いた人は皆、なぜこのアルバムが今なお人々を魅了し惑わせるのかを、まだ聴いていない人たちへと余すところなく伝えることだろう。

Translation by Smokva Tokyo

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