史上最も売れたアルバム『スリラー』の制作秘話:MJとクインシー・ジョーンズの情熱

1987年の日本公演でのマイケル・ジャクソン (Photo by Dave Hogan/Getty Images)

ポップミュージックの歴史を永遠に塗り替えた、音楽史に燦然と輝く金字塔『スリラー』。マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズが生みだした、史上最も売れたアルバムの制作秘話を探る。

本記事は2009年に発行された、マイケル・ジャクソン追悼別冊からの抜粋記事です。

スタジオのスピーカーが火を吹いたことは、その後の出来事の暗示だったのかもしれない。

1982年10月下旬、ロサンゼルスのウエストレイク・レコーディング・スタジオでは、完成を目前に控えたマイケル・ジャクソンの新作を仕上げるべく、大勢のミュージシャンと技術チームが昼夜を問わず作業し続けていた。彼を国民的スターの座に押し上げた1979年作『オフ・ザ・ウォール』以来となるそのアルバムは、発表前から世界中の注目を集めていた。

その時点で既に発表されていた、ポール・マッカートニーをゲストに迎えた先行シングル『ガール・イズ・マイン』のヒットに後押しされる形で、誰もがアルバムの一刻も早い完成を望んでいた。その時ジャクソンと彼のクルーが取り組んでいたのは、アルバム収録曲の中でも最も野心的であり、後に様々な記録を打ち立てる、そのプロジェクトを大成功に導いた曲だった。

「『今夜はビート・イット』の仕上げ作業に取り組んでいた時、3つのスタジオが同時に稼働していた」そのセッションを仕切っていたクインシー・ジョーンズはそう話す。「そのうちの一つではエディ・ヴァン・ヘイレンがレコーディングを行っていて、別のスタジオではマイケルがボール紙の筒越しにヴォーカルを録っていた。もうひとつのスタジオでミキシングを進めていた我々は、その時点で5日間まったく寝ていなかった。そんな状態で作業していた時、突然オーバーロードしたスピーカーが火を吹いたんだ」

その1ヶ月後にリリースされた『スリラー』は、ポップミュージックの歴史を永遠に塗り替えた。1983年2月に全米チャートのナンバーワンを獲得した同作は、その座を37週間保持するという未だ破られていない記録を打ち立て、全世界で約5000万枚を売り上げた。レコードの売り上げの減少とジャンルの細分化が進む現代においては、たった1枚のアルバムがあらゆる壁を越えて世界中の人々を結びつけたという事実は、もはや夢物語のように聞こえるに違いない。

マイケルの功績を軽視するつもりはないと念を押した上で、ジョーンズは『スリラー』が制作に携わったすべての人間による「歴史に残る作品を作る」という決意の産物だと語る。「『スリラー』はマイケルが一人で作り上げたんじゃない」彼はこう続ける。「アルバム制作はチームで行われるものだ。マイケルは4曲を書き、素晴らしいヴォーカルを録ったけど、それだけでアルバムが成り立ってるわけじゃない」ジョーンズはエンジニアのブルース・スウェーディアン、そしてR&Bグループのヒートウェイヴのメンバーであり、『オールウェイズ・アンド・フォーエバー』『ブギー・ナイツ』等のヒット曲を書いたソングライターのロッド・テンパートンの功績はとりわけ大きいと主張する。ジョーンズが絶大な信頼を寄せていた後者は、アルバム『オフ・ザ・ウォール』にも『ロック・ウィズ・ユー』とタイトル曲を含む3曲を提供している。

ポップ・アイコンとしての地位を確立した『オフ・ザ・ウォール』の発売からほどなくして、マイケルはカリフォルニア州エンシノにある自宅のホームスタジオで、『スリラー』の制作に着手した。彼が作ろうとしていたのは『オフ・ザ・ウォール』を上回るだけでなく、収録曲すべてがヒットシングルとなるようなアルバムだった。

Translated by Masaaki Yoshida

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