ボウイが結成した短命バンド「ティン・マシーン」、ピクシーズのカバーを振り返る

デヴィッド・ボウイのティン・マシーン、ザ・ピクシーズをカバー

デヴィッド・ボウイの短命ノイズ・ロック・バンドがカバーした「ディベイサー」を振り返る。「1980年代、ソニック・ユース以外で最も説得力のある音楽はピクシーズだった。彼らの中には猟奇的なビートルズみたいな要素があると、いつも思っていた」と、かつてデヴィッド・ボウイは語っていた。

デヴィッド・ボウイは知っていた、1987年に行ったグラス・スパイダー・ツアーが終わる頃には大きな変化を起こさないとダメだ、と。過酷で、度の過ぎたスタジアムでの派手なショーは、多くのファンをまごつかせ、ほとんどの批評家に酷評された。アルバム『レッツ・ダンス』が大成功をおさめてからすでに4年が経過していた。『レッツ・ダンス』以降にリリースした2枚のアルバムは全く評価されなかった。自身のキャリア始まって以来の見当違いとクールさの欠如の瀬戸際でためらいながらも、ボウイはギタリストのリーヴス・ガブレルス、ベーシストのトニー・セイルス、ドラマーのハント・セイルスとノイズロック・バンド、ティン・マシーンを結成した。

ティン・マシーンが強く影響を受けたバンドはソニック・ユースとピクシーズだった。彼らは、批評家たちは絶賛する実力派バンドではあるが、主流のラジオ局やMTVからは見向きもされないバンドだった。しかし、実は、ロックの骨格を強化しながら新たな方向へ導いたのも彼らだったのだ。

ただ、これらのバンドがティン・マシーンと大きく違う点は、ソニック・ユースもピクシーズもバンドの成り立ちが自然だったこと。つまり、ティン・マシーンは“普通のロックバンドが世界でも最も有名なシンガーをフロントマンとして迎えてしまった”という不運を最初から抱えた、不自然なバンドだったのである。彼らは常にボウイの熱狂的なファンの目にさらされ、一挙手一投足が話題にのぼる状況下での活動を強いられた。

1989年の夏、セルフ・タイトルのデビュー・アルバムをプロモートするため、ティン・マシーンはツアーを始めた。ツアーに出る前に、これはティン・マシーンのツアーであること、このライブ中に「レッツ・ダンス」や「ヤング・アメリカンズ」を期待してはいけないことを公言していた。当時のローリングストーン誌に掲載されたジェフ・レスナーのライブ・レポートには「ライブの反応は様々だった。バンドがパワフルでタイトな演奏を行ったと感じたコンサート好きがいる一方で、新曲もコンサートの不自然な雰囲気にも幻滅した観客もいた。とりあえずファンたちは、これはボウイが気まぐれに組んだ突拍子もないバンドとみなして、大音量のギター、ダークな歌詞、色気のない硬派なステージングで展開される、ティン・マシーンのストレートなロックに身体を委ねていたようだ」と記されていた。

自身の過去を払い落とすことに失敗して欲求不満が募ったボウイは、翌年サウンド+ヴィジョンというソロ・ツアーを展開する。このツアーで世界を回りながらボウイはこの年のほとんどを過ごした。そして、昔からのボウイ・ファンは、このツアー限りで演奏しないことにした「スペイス・オディティ」を最後に聞くチャンスに恵まれたのだった。ボウイは過去のヒット曲をプレイする最後のツアーだと、すべての観客に向かって明言していた。それを証明するように、このツアーが終わると彼はティン・マシーンの新作を完成させ、1991年にこのアルバムでのシアター・ツアーを行っている。

Translated by Miki Nakayama

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE