レディオヘッド『パブロ・ハニー』知られざる10の真実

6. 『シンキング・アバウト・ユー』は自慰行為を歌ったものだが、コリンとジョニー・グリーンウッド兄弟の母親のお気に入り

グリーンウッド兄弟は、いわゆるやり放題のロックンロール・ライフを実践することで、彼らの生真面目な母親をからかって楽しんでいた。「ジョナサンはたびたび、ドラッグのやり過ぎで母親を悩ませていた」とコリンは、1995年にセレクト誌のインタビューで語っている。「母親はそばに座って、“あら、いいわね”なんて言っていた。面白いことに、僕らのバンドが初めて契約した時に、母親は僕らが何をしているかを祖父には伝えなかったんだ。それを聞いたら彼は死んでしまうと思ったようだ」 初めは心配していた彼女だが、表面的には彼らのデビューに喜んでいる風だった。「彼女は僕らが自慢だったんだと思う」とジョニーは言う。「デビュー・アルバムの中の彼女のお気に入りは『シンキング・アバウト・ユー』だった。“I’m playing with myself”って歌詞が、自慰行為のことを歌っていることも知らずにね」

同曲は、EP『ドリル』に収録された激しいバージョンから、アコースティック・ギターと繊細なパンプ・オルガンによるダブルトラックの上品なバージョンに生まれ変わっている。ただの自慰行為の曲ではない。報われない愛と孤独が本来のテーマで、トム・ヨークによるロマンスへの強い憧れが絡む。男子校のアビングドン・スクール時代の思い出から生まれた曲だ。「性的な感情に大きな罪悪感を感じる。だから僕は、誰かを空想することを後悔しながら一生を終えるんだ」と彼は1995年に、ローリングストーン誌に語っている。「学校でも僕は、女の子たちが可愛すぎて怖かった。マスターベーションに耽って気持ちを処理したんだ」

7. 『クリープ』は、1974年のザ・ホリーズのヒット曲に酷似しているとして訴えられる

レディオヘッドは当初『パブロ・ハニー』のレコーディングへ向けた初期のセッション中に、『クリープ』を“スコット・ウォーカーの(ような)曲”として、プロデューサーのコルデリーとスレイドに紹介した。それがどう聞き違えたか、プロデューサーたちは同曲を、バリトンのポップ・アイドルから現代のアバンギャルドな吟遊詩人となったスコット・ウォーカーの書いたものだと勘違いした。「その夜リハーサルを終えて帰る時、“彼らのベスト・ソングがカバー曲だなんて残念だ”とショーンが言ったんだ」と、コルデリーは将来のヒット曲を初めて耳にした時のことを振り返った。『クリープ』はウォーカーのオリジナル曲ではなかったが、サビが、キャッチーなポップソング『The Air That I Breathe』という意外な曲と酷似していた。同曲は、アルバート・ハモンド(ザ・ストロークスのギタリスト、アルバート・ハモンドJrの父親)とマイク・ヘイゼルウッドにより1972年に書かれたもの。1974年のザ・ホリーズによるバージョンが最も有名で、ヨーロッパ大陸と北米大陸の両方でヒットした。

直接的な盗作というよりは、レディオヘッドにとってはリスペクトだった。「実際の流れはこうだ。『クリープ』を作っていた時、Bメロで僕が弾いたギターを聴いてエドが制止したんだ」とグリーンウッドは1993年、フェンダー・フロントライン誌に語った。「エドは、“ホリーズの曲と同じコード進行じゃないか”と言って、歌って聞かせた。それをトムがコピーしたんだ。そうやって別の何かを組み込むのは、僕らのおふざけだった。ちょっとした気分転換だったんだ」 しかし『The Air That I Breathe』の著作権者たちにとっては、おふざけでは済まず、著作権侵害で訴訟を起こした。結局示談で決着したが、金額は明らかになっていない。裁判の結果、ハモンドとヘイゼルウッドが『クリープ』の共作者としてメンバーと共にクレジットされることとなった。「レディオヘッドは『The Air That I Breathe』から実際に取ったことを認めたんだ」とハモンドは2002年に証言している。「彼らは正直だったから、“すべてをよこせ”といって我々に訴えられることはなかった。我々は結局、ほんの一部を得るだけで手を打った」

Translation by Smokva Tokyo

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