悪が人を殺すのではない、銃が人を殺すのだ:銃乱射事件を「悪行」と片付ける米国政府

投票により選ばれたトランプ大統領のような人間が、「悪」という言葉に頼って銃乱射事件を表現する時、その裏には意図した戦略が隠されている。銃乱射事件が一斉に報道されることで、銃規制を主張する人々が世間の注目を集め、命の大切さを説く絶好の機会とすることを、共和党支持者は承知している。全米ライフル協会(NRA)に大きな支持を受けている共和党の目標はひとつ、「銃の販売を規制する法案はひとつも通すな」だ。事実、議会の共和党幹部は、サイレンサーやAP弾を購入しやすくする法案の提出を検討している(訳註:2017年10月時点)。共和党員は、常にいくつかの策を機械的に講じている。

共和党員に対しては、銃乱射事件のような惨劇を「政治問題化」してはならない、という天の声がある。議論に政治を持ち出すのは時期尚早であり、被害者やその家族に対して失礼だ、という理屈だ。

共和党員は、「犯行に使用したのは合法的な銃ではない」とか「犯人は(銃購入時の)身元確認にパスしていた」という理由を付け、「特定の銃規制法によって個別の事件を止めることはできない」と主張する。まるで、銃乱射事件を何件か未然に防いだとしても、すべてを止められなければ意味がない、とでも言っているようだ。

既存の法も無視して従わないような犯罪者は、そもそも銃規制法などがあったとしても眼中にないだろう、と共和党員は主張する。

彼らは銃乱射事件を「悪行」と呼び、まるで事件がランダムに発生し、未然に防ぐことのできなかった事象とでも言いたげだ。目に見えず、実体のない「悪」と戦うことなどできない。具体的な対策を避けたい政治家にとって、これほど完璧な目眩ましはない。いったいどうしたらよいのだろう? 「邪悪さ」を違法とする法律を作ればよいのだろうか?

トランプ大統領は、国の歴史上最悪の銃乱射事件に直面しても、銃規制法案を提出したり支持したりする気はない。事件を「悪」のひと言で済ませるのは、銃犯罪を非難する目を、銃社会や銃社会を擁護する緩い法律ではなく、別のものに向けるための手段にすぎない。トランプ大統領の遠回しなコメントに対し、ケンタッキー州知事のマット・ベビンはより露骨な発言をしている。






「ラスベガスでの悲劇を利用して銃規制強化を訴えるすべての政治的な日和見主義者たちへ:邪悪さは法規制できないのだ」(ベビン州知事のツイッターより)

ベビン知事は、妊娠中絶やマリファナなどの「害悪」は規制すべきとしている一方で、銃に関しては「邪悪さは取り締まれない」と主張している。まあ言っていることは正しい。

しかし問題は「邪悪さ」や「悪魔」ではない。我々自身、つまり「人間」に問題があるのだ。我々人間には、行動に対する動機、根拠、合理性、分別がある。スティーブン・パドックの犯行動機はわからないし、今後も不明なままかもしれない。身元調査の完全実施やすべての殺傷能力の高い武器の禁止など、思慮分別のある法案を成立させることはできても、(武器を揃えられるほど)裕福で恐ろしい事件を起こす気満々の人間を止めることはできなかっただろう。しかし、別の犯行は止められるかもしれないし、別の人間の命は救えるかもしれない。

銃により年間数十万人が命を落としているという現実を「悪」のせいにするのは、何の対策も取らないことへの言い訳にすぎない。ラスベガスで起きたような事件による死者の数は、全体のわずかでしかない。自殺、事故、銃犯罪、そしてラスベガス銃乱射事件のような虐殺など、銃による死者を減らすことはできるし、しなければならない。つまり、銃を持つべきでない人々から銃器を取り上げる法規制が必要、ということだ。それ以外に方法はない。

何もしないことこそ「悪」だ。


Translation by Smokva Tokyo

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