エリック・クラプトン新作ドキュメンタリー映画からわかる10のこと

エリック・クラプトンの新しいドキュメンタリー映画『Eric Clapton: Life in 12 Bars』(Photo by Getty Images / Courtesy of SHOWTIME)


6. ジョージ・ハリスンとの複雑な関係

クリームが解散へ向かっている頃、クラプトンはビートルズのギタリストとの関係を深めていた。クリームの最後のアルバムに収録された『バッジ』は、クラプトンとハリスンの共作だった。その見返りとしてクラプトンは、ビートルズの『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』でギターをプレイした。「彼らは厳しい審査員のようだった」とクラプトンはビートルズについて語っている。クラプトンとジョージ・ハリスンは、ビートルズ解散後にジョージがリリースした最初のアルバム『オール・シングス・マスト・パス』で再び共演している。

ハリスンとの友人関係を深めると同時にクラプトンは、ハリスンの妻パティ・ボイドに熱を上げていった。やがて、ボイド曰く「情熱が溢れ出す」手紙をクラプトンは送った。「それからエリックは電話をしてくるようになり、“君は明らかに幸せでない。僕のところへ来てくれないか”と言ったの。私は“それはできないわ。私はジョージと結婚しているから”と答えた。彼は優しく思いやりがあり、情に厚い人だった。人生で最も素晴らしい誘いの言葉だったわ。それに比べてジョージはとても冷たく、つまらない人だった」 ふたりは最終的に結婚するが、1979年まで待たねばならなかった。

7. 報われない愛とペルシャの物語から生まれた代表曲『レイラ』

ボイドへの愛が報われない時期にクラプトンは、ペルシャの恋物語『ライラとマジュヌーン』と出会った。「不運の愛を描いた悲劇で、その頃の自分と重ね合わせた」と彼は言う。「パティとの経験を悲劇として捉えたんだ」 クラプトンは、イギリスで『レイラ』の製作に取りかかった。「でもその時は完成させることができなかった」と彼は付け加えた。

8. デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバム完成に重要な役割を果たしたデュアン・オールマンの参加

クラプトンと彼の新たなバンドはマイアミへ飛び、伝説のクライテリア・スタジオで、アトランティック・レコードのエンジニア、トム・ダウドと共にアルバム『いとしのレイラ』のレコーディングに入った。晴れ渡った空の下で才能豊かなメンバーと「2週間セッションしたが、行き詰まった」とクラプトンは言う。「壁に行き当たってしまった」

ダウドはバンドのメンバーを、オールマン・ブラザーズのライヴへ連れて行った。彼らのパフォーマンスが刺激的な効果をもたらした。「彼らのバンドに衝撃を受けた」と振り返るクラプトンはオールマンと意気投合し、スタジオでのレコーディングに参加させることになる。「オールマンは、我々が必要としていた変化をもたらす人間だった」

9. 祖父の死後に悪化したドラッグとアルコール依存症

ボイドとの一件で動揺が続くクラプトンに追い打ちをかけるように、祖父のジャック・クラップが逝去した。彼はますますドラッグとアルコールに依存するようになっていった。「当時は(ドラッグはNGだが)アルコールはOK、という風潮だった。だが僕にとってアルコールは、ヘロインよりもずっと悪影響をもたらした」とクラプトンは証言する。「エリックはクルボアジェやレミーマルタンを見つけると、すぐに手を出していた」と、ギタリストのジョージ・テリーが付け加える。「一度手にすると、なくなるまで離さなかった」

クラプトンは依存症を克服するまでに数年を要した。克服後に彼は、依存症患者を支援する施設クロスローズ・センター・アンティグアを設立している。

10. 人種差別的な発言を後悔している

1976年のコンサート中に行った一連の人種差別的発言が、ロック・アゲンスト・レイシズムのイギリスにおける最初のコンサート開催のきっかけとなった。「自分の発言内容を後から知った時は、ただ自分にうんざりしたよ」とクラプトンは、ドキュメンタリーの中で語っている。「ショックで自分が許せず、当時の自分が恥ずかしい」

これらの発言は、ほぼアルコール依存によるものだという。「熱狂的愛国主義者やファシストになるところだった」と彼は振り返る。「根拠もなく半人種差別主義者のようだった。友人の半数は黒人で、僕は黒人音楽のファンであり継承者でもある。でもボトルを持っている間は、そういうことをすっかり忘れてしまっていた…」

Translation by Smokva Tokyo

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