映画『沈黙』:M・スコセッシが宣教師のドラマを通じて信仰を問う

撮影は台湾で行われ、詩的な視線を持った才能あふれるカメラマン、ロドリゴ・プリエト(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)によって技術的にも感情的にも驚嘆すべき映像となっている。また、もしもあなたが編集が孕む芸術性というものを吟味したいなら、スコセッシの長年の共作者、セルマ・スクーンメイカーの編集に注目するといい。

スタッフ・キャスト全てのパフォーマンスが一流で、特に日本から参加した俳優陣は称賛に値する。特にキチジローを演じた窪塚洋介は素晴らしく、司祭の助けになりたい気持ちを持ちながら、保身のために裏切りの行為を繰り返す姿は、まるでキリスト教におけるユダのような存在だ。狡猾でウィットに富んだ残忍な宗教裁判官・井上奉行を演じたイッセー尾形は、オスカーノミネートの噂も囁かれるほど。3人のキリシタンの村人を、潮の満ち引きを利用して呼吸を奪い、水死させる水磔(すいたく)の刑に処したのも井上だ。美しさと恐怖が共存する『沈黙』のシーンの数々は、沈黙を続ける神に対し、自然界に宿る大いなる力の存在感を主張しているかのようである。


オスカーノミネートの噂も囁かれるイッセー尾形。(C) 2016 FM Films, LLC.  All Rights Reserved.

苦境に立たされたガーフィールド演じる司祭は、キリストが彼に語りかける声を聞く。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世界に生まれてきた」。それは幻聴なのか、慈悲心なのか、自己正当化の術なのか。スコセッシは、本作『沈黙』のことを「経験の声と戦う信念の必要性」だと語っている。そしてこの映画が、根本主義と宗教的思想が過激化しつつある現代社会と深い繋がりがあることに疑いの余地はない。この複雑なテーマに確固たる思いで挑んだスコセッシは、安易に説教じみたり感傷にひったりすることで、この映画の辛辣さを軽減させることを拒否している。天国と地獄、残酷な自然と神の恩寵、そこに横たわる信仰の確立が、スコセッシが見つめる景色なのだ。

スコセッシが少し行き過ぎた思いを込めたことは否めない。しかし、夢想家というのはそういうものだ。この映画の運命は、観客の心を開けるか否か、そこにかかっている。おそらく巻き起こるであろう数々の議論を含め、それは簡単なことではないだろう。しかし、映画という媒体がなせる謎めいた可能性を信じる人々が、『沈黙』を見逃すことはないだろう。そして巨匠スコセッシにとっても、この映画の製作は必要不可欠なものだったのだ。


『沈黙-サイレンス-』
原作:遠藤周作
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ジェイ・コックス、マーティン・スコセッシ
撮影:ロドリゴ・プリエト
出演:アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライバー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシ
1月21日(土)より全国ロードショー。
http://chinmoku.jp

Translation by Sahoko Yamazaki

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