ボブ・ディランが『追憶のハイウェイ61』でロックの歴史に残したもの

アルバム『追憶のハイウェイ61』はボブ・ディランをフォークのヒーローからロックのレジェンドへと進化させた。(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

ディランはこのアルバムで既成のフォークソングの枠を超え60年代ポップの新たなスタンダードを築いた。

ボブ・ディランが1965年にリリースした2枚目となるアルバム『追憶のハイウェイ61(原題:Highway 61 Revisited)』は、歴史的な転機になるべくしてなった作品だった。このアルバムで初めて、ディランのヴォーカルとギターだけをフィーチャーした曲というものがなくなった。

1965年5月10日、ディランはイギリスでの短いコンサートツアーを終えたばかりだった。8回行われたオール・アコースティックのステージの様子は、D.A.ペネベイカーのドキュメンタリー映画『ドント・ルック・バック(原題:Don’t Look Back)』に収められている。ディランは、もういいかげんレコーディングした通りに昔の曲を演奏することに飽き飽きしていた。「当時はやりたくもない多くの曲を演奏していた。自分自身でもそんなに楽しんでいないのに、他人から"あれがよかった"とか"これが素晴らしい"なんて言われることにうんざりしていた」と後日ディランは振り返った。

それから間もなく、ディランはそのフラストレーションを観客へ向けるようになった。それに対して当初は反発も受けたが、そのカオスは音楽作りによいインスピレーションを与えた。

ディランの周りではすべてが目まぐるしく動いていた。イギリス・ツアーにはジョーン・バエズも同行していたが、当時彼はニューヨークのチェルシーホテルでサラ・ラウンズと同棲していた。その後1965年11月にディランとサラは密かに結婚式を挙げた。そんな状況と、ジョーンとの別れが恐らくディランをアンフェタミンへ向かわせた。「みんなラリっていた」とマリアンヌ・フェイスフルは振り返る。彼女もまた、ドノヴァンやアレン・ギンズバーグと共にロンドン・サヴォイホテルのディランのスイートにたむろしていた内のひとりだった。「5分おきに誰かがバスルームへ入っていって、ハイになって戻ってきていたの」

ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートが終了して2日後の1965年5月12日、イギリス・ツアーの締めくくりとしてジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズとのセッションに参加した。ロンドンのレヴィズ・レコーディングスタジオで行われたこのセッションには、当時まだ20歳だったエリック・クラプトンもギターで参加していたが、上手く溶け込めなかったようである。「ディランはピアノの前に座って、ジャムセッションみたいに俺たちがそれに合わせる感じだった」とクラプトンは語った。それが延々2時間も続いたという。セッション中、ボブ・ニューワースはクラプトンに言った。「エリック、お前のプレーはブールージーすぎる。ディランはもっとカントリーっぽさを求めているんだ」。



その1ヶ月後ディランは、マイケル・ブルームフィールドにほとんど同じようなことを指摘している。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのギタリストだったブルームフィールドは、1965年6月15日に行われるセッションに先立ち、直前の週末にウッドストックのディランの自宅に招かれた。ブルームフィールドは、セッションへ向けて新しく購入したフェンダー・テレキャスター(彼いわく"人生で初めて出会った素晴らしいギター")を持ち込んだ。ディランはセッションで演奏する曲を事前にブルームフィールドへ伝えようとしていた。そのうちの1曲は、アンフェタミンによる幻覚にまかせて書き綴った文章を集約したものだった。ディランは後に、これを「俺の彼女に対する憎しみを思うまま正直に吐き出した10〜20ページの長い散文詩」と表現している。曲はリッチー・ヴァレンスの『ラ・バンバ(原題:La Bamba)』のコード進行をベースにし、『ライク・ア・ローリング・ストーン(原題:Like a Rolling Stone)』が誕生した。

Translation by Smokva Tokyo

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