パール・ジャムの名盤『Ten』:あなたが知らなかった10のこと

パール・ジャムの1991年のグランジ最高傑作『Ten』について、あまり知られていない事実を見てみよう。 (Photo by Paul Bergen/Redferns)

『Alive』に与えたキッスの影響や、ヒットチャートでバンドの邪魔をしたビリー・レイ・サイラスの存在など、25年前のグランジ最高傑作について見てみよう。

この四半世紀で最も成功したロック・バンドのひとつであるパール・ジャムは、今までのキャリアで10枚のスタジオ・アルバムと数えきれないほど多くのライヴ・アルバムや公式ブートレグをリリースし、全世界でおよそ6000万枚ものアルバムを売り上げている。だが、もし彼らがリリースしたアルバムがこの1991年のデビュー作『Ten』の1枚だけだったとしても、ロックの歴史におけるバンドの地位は揺るがないだろう。今年8月27日で発売25周年を迎えた『Ten』は、『Alive』や『Jeremy』、『Even Flow』といったモダンロックの名曲を世に放ち、無名だったエディ・ヴェダーの超大物フロントマンとしての地位を確立させ、全米だけで1300万枚以上を売り上げた作品だ。

良くも悪くも、『Ten』の成功はシアトルのロック・シーン(と「グランジ」文化全般)を後押しし、このジャンルが全米の注目を浴びるようになり、パール・ジャムの激しく轟くような迫力やヴェダー独特のうなるようなバリトン声を露骨に真似するマイナー・バンドがたくさん現れた。また、いわゆるオルタナティヴ・ロックとメインストリーム・ロックの区別を曖昧にし、バンドの評論家やファン、ミュージシャンの間では、パール・ジャムはメジャー・レーベルの裏切り者なのか、もしくは、彼らの音楽的ヴィジョンが偶然アリーナを満員にするほど受け入れられただけのひたむきなアーティストなのかと、激しい議論が巻き起こった。

今では、そのような議論も落ち着き、混乱も収まっているが、『Ten』は今もなお、その時代を象徴するアルバムのひとつとして存在感を放っている。それでは、アルバムのリリース25周年を記念して、『Ten』についてあまり知られていない10の事実を紹介しよう。

1. 『Ten』は、少ない予算で制作された。

1990年3月、バンド唯一のフルアルバム『Apple』のリリース直前に、フロントマンのアンドリュー・ウッドをヘロインの過剰摂取で失ったバンド、マザー・ラヴ・ボーン(MLB)の残りのメンバーを中心に結成されたパール・ジャムは、MLBのようなコストの無駄遣いや失敗を避けようと決めていた。「(『Ten』の)制作にかかった費用は2万5000ドル程度で、ミキシングをしたのは3回ぐらいだったと思う。それでもマザー・ラヴ・ボーンのアルバム制作費用の3分の1程度かかった。このアルバムがこんなに大ヒットするとは思っていなかったけど、何だかそうなっちゃったみたいだね」と、ベーシストのジェフ・アメンはクラシック・ロック誌に語っている。

2. 『Alive』はデモ音源だった(追加された部分も若干あるが)。
1991年1月、パール・ジャム(当時のバンド名はまだムーキー・ブレイロックだった)は、シアトルのロンドン・ブリッジ・スタジオで、後に『Ten』のプロデューサーを務めることになるリック・パラシャーと共に、デモ・セッションの一環として数曲のレコーディングを実施した。その時に録音された曲のひとつが、パール・ジャムの不朽の名曲『Alive』だった。バンドは、3月と4月に実施した『Ten』の正式なレコーディング・セッションの際に、『Alive』のデモ音源のようなパワーと激しさをもう一度再現するのは不可能だと判断した。そのため、アルバムの最終ミックスで、アウトロ部分にマイク・マクレディのギターソロを新たに追加してはいるが、アルバム(とファースト・シングル)にこのデモ音源を使うことにした。「俺たちはあの時録音した曲をアルバムに入れた。あれは本当に素晴らしかった」と、アルコール問題のせいで『Ten』のリリース前にバンドを辞めさせられたドラマーのデイヴ・クルーセンが、ドキュメンタリー本『Pearl Jam Twenty』で振り返っている。

Translation by Shizuka De Luca

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