『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』ディラン初の傑作誕生秘話

12月6日のセッションではさらに3曲が追加され、アルバムもついに全容が見え始めてきた。『オックスフォード・タウン』は、アメリカ初の黒人大学生としてミシシッピ大学に入学したジェームス・メレディスの苦闘の物語、そして『アイ・シャル・ビー・フリー』はレッドベリーの『ウィ・シャル・オーバーカム』を編曲した、いささか使い回し的な1曲だ。このセッションではまた、アルバム中最高傑作である大作『はげしい雨が降る』も生み出された。この曲は、イギリスの民謡『ロード・ランダル』からメロディと構成を借りている。




ディランはこの曲を9月22日にカーネギー・ホールで初お披露目しているが、そのちょうど1か月後に、キューバにソビエトのミサイルが配備されていることが判明したとケネディ大統領が発表し、キューバミサイル危機が発生したのだった。ディランはこのような自己神格化のチャンスを逃がす男ではない。ヘントフに「『はげしい雨が降る』は、この世界の終わりへの脅威に対応して書いた曲だ」などと語っている。「歌詞の1行1行が全て、全く別の新曲の書き出しになっている。この歌詞を書いた時、僕にはもう、こうした曲を書く時間が残されていないと思ったので、全部を1曲にまとめたんだよ」。

アレン・ギンズバーグはこの曲を初めて聴いた時、うれしさのあまり涙を流したと語っている。「初期ボヘミアン、あるいはビート世代から次の世代にバトンを引き継ぐことができたと思えたからなんだ。それに、セルフエンパワーメントもね」

アルバム制作を続けていく中で、ディランは友達に、アルバムの出来栄えにどうも満足できないと明かしている。「古くさい曲が多すぎるんだ。ウディ(・ガスリー)のように書こうとした曲もあってさ」と彼は語っている。「僕は今、変化を経験している。もっと社会責任を追及するような曲が必要だ。僕の頭は今、そちらの方向に向いているんだよ」。そうした曲の最初が、軍産複合体を激しく批判した『戦争の親玉』だった。

1963年4月、ディランは数曲の新曲を録音した。センチメンタルなラヴソング『北国の少女』は、昔の恋人だったエコー・ヘルストロムとボニー・ビーチャー、そしてやっとニューヨークに戻ってきたロトロへの思いに着想を得たものとみられる。『ボブ・ディランの夢』もノスタルジックな作品で、このアルバムが発表された後、永遠に変わってしまうであろうとディランが感じ取った友情や地域社会をあらかじめ回顧している。

「僕らはただの子どもだったね」とヤローは振り返る。「考えることといえば、晩飯をどこに食べに行くかくらいのもので、ただ足を前に進めていただけだった。ボビーが牛用のムチを持っていて、僕らはそれを持って外に出て、意味もなくムチうちの練習をしていたことを覚えている。『ボブ・ディランの夢』は、そうしたことをとてもよく捕らえている」

これらの曲は当初は『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』には入っていなかったのだが、後にディランがこのアルバムを改訂する際に収録されることとなった。おそらくレーベルから、名誉棄損の可能性があったナンバー『Talkin’ John Birch Paranoid Blues』をアルバムから外すようとの要請があったことから、追加収録したものと思われる。

ことの経緯はともかくも、結果としてこのアルバムはより円熟し、よい出来栄えとなった。伝統的なフォーク・ブルースへの敬意の念が、軽快さと深みに置き換えられたのだ。

必ずしも全ての初期のファンが新しいディランを受け入れたわけではなかった。ディランのミネソタの友達の1人は、「このアルバムは、おとぎの国へと漂っていってしまった。失敗作だ」と、フォーク原理主義の雑誌『The Little Sandy Review』に書いた。

しかし世界的には『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』は大きな反響を引き起こした。マニトバ州ウィニペグでは、ニール・ヤングという名前の少年がこのアルバムを聴き、他の多くの少年と同じく、人生の全く新しい可能性を考えることとなった。「僕はこんなふうに思った。『おい、ここにも自分流で新しい音を出している男がいるぞ。こいつは気に入った。オレにも曲が書けそうだ』」




Translation by Kuniaki Takahashi

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