プリンスの恩師による回想録:稀代の天才の素顔を語る

当時私は94イーストのファーストシングルのレコーディングに取り組んでいた。スティーヴィー・ワンダーと『マイ・シェリー・アモール』を共作したハンク・コスビーが書いた『フォーチュン・テラー』、そして私の自作曲『10:15』の2曲だ。スタジオでプリンスとはち合わせたことがあったんだが、その時彼は『レコーディング?俺に弾かせてよ』なんて言ってきてね(笑)私はこう答えたんだ。「もちろん、大歓迎さ」プリンスはその2曲でバックグラウンドギターを弾いているよ。

その約1年後、ハンクがポリドールをクビになったせいで、私のバンドはのレコード契約を失ってしまったんだ。そのことを彼とアンドレに伝えた時、プリンスはまるで自分のことのように腹を立てていた。そして彼は3人でスタジオに入ろうと提案し、私がプリンスと共作した『ジャスト・アナザー・サッカー』、『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック・オブ・ザ・ワールド』、そして私とアイク・ペイジの共作曲『ラヴィング・カップ』の3曲をレコーディングしたんだ。

彼と一緒に曲を作るのはすごく楽しかった。私が考えたアイディアを元に、プリンスは「こういうのはどう?」なんて言いながら、2人で曲を形にしていった。私たちの相性は抜群で、彼のアイディアに「今のはイマイチだ」なんて反論したことは一度もなかった。本当に底知れない才能の持ち主だったよ。私が作曲して彼が歌詞を書くというプロセスは、常にスムーズそのものだった。

ある日、メイン・イングリーディエントのトニー・シルヴェスターのレコーディングに2人を参加させようと、私はプリンスとアンドレをニューヨークに連れて行ったんだ。ヒルトンに泊まったんだが、まるで嵐が通り過ぎたかのように、彼らは部屋をメチャメチャにしてしまったんだ。2人ともまだ10代のキッズだったから仕方ないがね。その時に入ったスタジオで、私は『フィール・フォー・ユー』を初めて聴いたんだ。歌詞はまだできてなかったんだが、グランドピアノで曲を弾いてくれた。素晴らしかったよ。

私は自身のバンドがレコード契約を失った時に、ちょうど本格的なキャリアをスタートさせたばかりだったプリンスのサポートに徹しようと決めたんだ。当時彼はミネアポリスにあったデルズ・タイヤマートで働いていたんだが、その少し前に彼の機材がすべて盗まれてしまってね。幸いにも私が貸した2台の巨大なスピーカーだけは残されていて、おかげでバックバンドのオーディションをすることができた。それ以降、彼は私の自宅でリハーサルをするようになったんだ。オーディションで選ばれたボビー・Z、アンドレ・シモン、デズ・ディッカーソン、ゲイル・チャップマン、マット・ミルクらと共に、毎日朝10時から夜10時までみっちり練習していたよ。

ある日の夜10時30分頃、プリンスに電話したんだが彼は出なかった。彼の家は近所にあったから様子を見に行ったところ、彼の車は家の前に駐車されたままだった。呼び鈴を鳴らしてもドアをノックしても返事はなかったが、何かを叩いているような音がうっすらと聞こえたんだ。私が家の脇に回って地下室の窓から中を覗いてみると、彼は鬼のような形相でドラムを叩いていた。12時間リハーサルした直後のことだよ、信じられるかい?窓を叩くと彼はやっと気づいて、私を中に入れてくれた。彼の実力は才能だけによるものでなく、ハードな練習に裏打ちされているということを、その時私は理解したんだ。

プリンスは野心家だった。音楽に関することはすべて完璧にこなすと決めていたんだ。その固い意志と行動力こそが、彼の最大の才能だったと私は思っている。

私のレコーディングに参加していた頃の彼は、プレイヤーとしてはまだ未熟だったものの、スタジオミュージシャンにはない特別なものを既に持ち合わせていた。彼の飲み込みの早さは尋常ではなく、まるで記憶を写真として残すかのように、教わったことをあっという間に自分のものにしてみせた。彼のような存在は2度と現れないだろうね。ギター・マガジン、ベース・マガジン、キーボード・マガジン、ドラム・マガジン、そしてローリングストーン誌、そのすべてで表紙を飾ったアーティストなんて他にいないだろう?

彼が有名になってからも、私たちは連絡を取り合っていたよ。彼と最後に会ったのは2007年で、ラスベガスの3121 Clubで行われたショーの時だった。「久しぶりだね、元気にしてた?」みたいな感じで、以前と変わらず気さくだったよ。

彼と多くの時間を共有できたことを、とても幸運に思っている。彼のレコードを聴いたりライブを見るたびに、彼の友人であることを嬉しく思った。私の人生において、かけがえのない存在だったんだ。まさか彼が私より早くこの世を去るとは夢にも思わなかった。彼は数十年に1度出るか出るか出ないかという、稀代の天才だった。そんな彼と幾つもの思い出を作り上げることができた私は幸せ者だよ。ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックス、エイミー・ワインハウス、そういったアーティストたちが皆20代で亡くなってしまったことを考えれば、彼が57歳まで生きてくれたことに、私たちは感謝するべきなのかもしれないね。

Translation by Masaaki Yoshida

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