ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンが90歳で死去

1969年の『レット・イット・ビー』制作時、バンドは変化の必要性を感じていたという。「メンバーは多重録音という手法と決別しようとしていた」マーティンは1976年のインタビューでそう語っている。「『この作品にギミックは必要ない』ジョンはそう言ったんだ」結果的にそのセッションは混乱を極め、バンドはすべてのテープをフィル・スペクターの手に委ねることになった。「美しいコーラス、優美なストリングスやハープの上にオーバーダビングを繰り返していくフィルのやり方が、私にはまったく理解できなかった」マーティンはそう語っている。「袂を分かつ時が来たと感じた。もう私の役目は終わっていたんだ」

しかし『アビー・ロード』の制作にあたり、バンドは再びマーティンを必要とした。「こう言われたんだ。『原点に戻るために、もう一度君の力を貸して欲しい。次のアルバムのプロデュースをしてくれないか?』」マーティンはそう話す。「我々の間にわだかまりはなかった。みな心を通い合わせようと努力したんだ」唯一の問題は、ポップ・ミュージック・シンフォニーを作るというマーティンのアイディアにマッカートニーが賛同したのに対し、レノンはよりトラディショナルな作風を追求していたことだった。「妥協点を探る必要があった」マーティンはそう語っている。「A面はそれぞれ独立した曲が並び、B面ではすべての曲をつなぎ合わせる。それが我々がたどり着いた結論だった」

1970年代、ビートルズの復活を望む声は絶えなかったが、マーティンは決して賛同しなかった。「メンバーが再びスタジオに集うことは、この先も決してない」彼は1976年のインタビューでそう語っている。「ビートルズはもう人々の記憶の中にしか存在しない。たとえ再び4人が集ったとしても、それはもはやビートルズではないんだ」

マーティンはその後も各メンバーのソロ作品に携わっている。マッカートニーの1973年発表のシングル『死ぬのは奴らだ』をはじめ、1980年代のアルバム『タッグ・オブ・ウォー』『パイプス・オブ・ピース』『ヤァ!ブロード・ストリート』、そしてリンゴ・スターの1970年作『センチメンタル・ジャーニー』でもプロデュースを担当している。またマーティンは1978年の映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のサウンドトラック、1995年発表のビートルズの『アンソロジー1』、そして2006年からラスベガスで行われているショー『ザ・ビートルズ:ラヴ』の監修をそれぞれ担当している。

Translation by Masaaki Yoshida

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