グレン・フライ、イーグルスの中心だった男

グレンに個人的な話をするのに躊躇はいらなかった(Photo: Gijsbert Hanekroot/Getty)

1月18日、イーグルスの創設メンバーであるグレン・フライがこの世を去った。



名曲『ホテル・カリフォルニア』をはじめとする幾多もの曲を手がけたフライは、キャメロン・クロウ(ローリングストーン誌のライターとして活躍、その後映画『あの頃ペニー・レインと』などを監督)にとっても、大切な存在だった。ロックスターとして、そしてそれ以上に、いい友人として。

時は1972年、『テイク・イット・イージー』がチャートを賑わせていた。私の地元のサンディエゴに、イーグルスがやって来た。私はカメラマンの友人、ゲイリーを学校から引きずってきて、計画を練った。バックステージに潜入してインタヴューを取ろう。彼らのハーモニーと、そのデビュー曲にみなぎる自信が、私は好きだった。


「俺たちはイーグルス。南カリフォルニアから来ました」と、グレン・フライがバンドの紹介をした。のっけから彼らは飛ばした。彼らの辞書に“のんびり”という言葉はなかった。彼らは、強気なヴォーカルと、さらに強気な態度を持つ、野心に満ちたアメリカのバンドだった。

難なくバックステージへ入り込んだゲイリーと私はツアー・マネージャーを見つけ、楽屋に通してもらった。そこでドラム兼ヴォーカルのドン・ヘンリー、ベースのランディ・マイズナー、ギターのバーニー・ リードンに話を聞いた。ふた言目には「それでグレンが……」と始まるのに、肝心のグレン・フライだけがそこにいなかった。

30分ほどしてグレンが入って来た。デトロイト特有のゆったりとした話し方をしたかと思えば、メジャーに昇格したばかりの野球選手のように早口になった。彼はミュージシャンであり、戦略家であり、スタンダップ・コメディアンだった。グレンが広い視野で将来を見据えていることはすぐにわかった。彼は、いろいろなバンドの解散に至った経緯を研究していた。彼の笑い方と態度には人を引きつける力があった。   

インタヴューの最後に、全員の写真を撮らせてほしいと私はバンドに頼んだ。その写真は今でも私の大好きな1枚だ。彼らはとても若くて、幸せで、自由だった。後に記憶に残る解散劇を演じるバンドは肩を抱き合い、その夜、幸せの絶頂にいた。

グレンと私は電話番号を交換し、交流を続けた。グレンのおもしろおかしい処世術は、兄弟のいない私にとってたまらなく魅力的だった。グレンに個人的な話をするのに躊躇はいらなかった。彼はベテランのコーチのように、問題の解決策を考えてくれた。ある時は、パーティで上手に酔うための心得を教えてくれた。姉には聞けないような男特有のアドバイスを求めて、私は足しげくグレンの元へ通うようになっていた。

グレンは仲間意識を大切にしていた。クルーや友達と一緒にいる時、そしてレコーディング中にもそれは明らかだった。グレンとヘンリーは、ベテランのプロスポーツ選手さながらにヴォーカル・テイクを指導し、厳しい指示を与え、檄を飛ばした。また、グレンは、長年の友人でマネージャーのアーヴィン・エイゾフとともに、バンドが経済的に困窮しないよう注意を払っていた。「俺は大金持ちにはなりたくないんだ。大金は必要ない」と、かつて彼は言った。「100万ドルを家と生活費に使って、もう100万ドルを銀行に預けて利息で食べていく。俺の人生、それで十分だ」

6カ月後、ソールドアウトとなったオークランドのライヴの前に、彼はいいニュースをさりげなく知らせてくれた。「キャメロン、200万ドルの話をしたことがあるだろ?」私は頷いた。「やったぜ。これからは、レコードを山ほど作って、全部自分で買えるんだ!」

Translation by Naoko Nozawa

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