Photo: (Michael Ochs Archives/Getty)

数々のヒット曲を送り出してきた伝説的バンド『アース・ウィンド&ファイアー』、その成熟したソウル、究極のファンクを堪能する。

「僕は自分の人生のことを書いていたんだ」。モーリス・ホワイトはかつて、ジャーナリストの故ティモシー・ホワイトにこう語った。

1970年代半ばから後半、ファンク集団、アース・ウィンド&ファイアーには大勢のファンがいた。世界で最も人気のあるブラック・ロック・バンドだったと言って間違いないだろう。ゴールド&プラチナ・アルバムが12枚近く、『シャイニング・スター』『シング・ア・ソング』『アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン』といったチャートトップ10に入ったシングルも10曲近くある。

徐々に洗練されていった彼らのスタイル、ディスコ、ジャズ・フュージョン、アフリカーナ、ソフト・ポップ、ストーンド・ソウルのミックスに、批評家はうんざりしていたかもしれない。だが、平和や崇高な精神、愛といったメッセージ、そして素晴らしい衣装、扇情的なライブによって、時代を最も象徴するバンドの1つとなったのである。

絶頂期のアース・ウィンド&ファイアーは10人のミュージシャンと、かの有名な管楽器隊フェニックス・ホーンズを抱えていた。そして、ホワイトは常にその中心にいた。ゴスペル歌手のフィリップ・ベイリーとリードボーカルを務めたときも、または伝説のプロデューサー、チャールズ・ステップニー(残念ながら1976年に死去)とスタジオ作業をしていたときも。ホワイトは、エジプトのピラミッドや聖書のシンボルを複雑にデザインしたジャケットカバーを監修し、歌詞のなかには自分の信条を反映させた。彼の歌を聴いた人たちが、その意味を全て理解したかどうか定かではないが、アース・ウィンド&ファイアーの放つパワーを否定できる者はいない。

2016年2月3日(水)の夜、モーリス・ホワイトがロサンゼルスで逝去した。
偉大なソウル・ファンク界のリーダーを追悼し、『アース・ウィンド&ファイアー』ベストソングを紹介する。

『スウィートバックズ・テーマ』(1971)
1970年頃、劇作家・詩人として、またラディカルな発言で注目されたメルヴィン・ヴァン・ピーブルズは、自身の低予算映画『スウィート・スウィートバック』が完成目前だった。まだサウンドトラック作業が残っており、ピーブルズのアシスタントは当時、シカゴからロサンゼルスに出てきたばかりの若きモーリス・ホワイトと交際していた。ホワイトのバンド、アース・ウィンド&ファイアーはまだ自分たちのデモ曲を売り込んでいる時代。「彼らはハリウッド大通りで餓死寸前だった」と、ピーブルズはワックス・ポエティックス誌に明かしたが、彼らの協力を得て、自ら歌い叫ぶほどのギラギラしたファンクとジャズのループを完成させた。アルバムも映画も、予想外の大ヒットを記録。こうして、アース・ウィンド&ファイアーはブラックスプロイテーション時代における音楽界最初のスターとなり、後に続くアイザック・ヘイズの『シャフト』や、カーティス・メイフィールドの『スーパーフライ』のための道を切り開いたのである。


『デヴォーション』(1974)
「モーリスが抱いていた全体的な構想は、少しばかりジャズの要素を振りまくような感じだった」とアース・ウィンド&ファイアーのシンガー、フィリップ・ベイリーは2013年のインタビューで語った。これは『デヴォーション』に最も顕著に現れている。1974年のアルバム『オープン・アワ・アイズ』に収録されている、たいしてヒットしなかったがファンの熱狂的支持を集める曲だ。キラキラ輝くようなコード、フュージョンなキー、甘美でしなやかなベースラインにどっぷり浸ったこの曲の誘惑は、繊細でありながら揺るぎない。アメリカが逼迫した時代における癒しの曲であり、R&Bやポップチャートにジャズを持ち込むというホワイトの狙いは、アース・ウィンド&ファイアーの楽曲リストのなかでも、より神聖なものに感じられた。歌詞のなかでは堂々と「私たちのミッションはメロディを奏でること/声を上げて、甘いハーモニーを歌おう」と、その考えを示している。最も記憶に残るバージョンは、1975年のライブアルバム『灼熱の狂宴』に収録されている。アトランタのオムニシアターで行われたライブはまるで、ゴスペル・ファンクのリバイバルだった。

Translation by Sayaka Honma

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