ロジャー・ウォーターズインタヴュー:ジミヘンとのピンク・フロイドツアー、映画『ザ・ウォール』まで

ーコンサートで特に難しかったところはありましたか。

もう高音は難しいこともある。だから2夜連続が限界なんだ。「ラン・ライク・ヘル」はトーンを落としている。前はDだったが、今はCでやってる。Dではもう歌えないんだ。

ーパフォーマンスの観点からは、どんなことが難しいですか。

コンサート後半に、私が演壇に立つ場面がある。ショーをやりはじめた頃には、演壇の周囲には何もなくて、ただ、演壇に上るための階段がついていただけだった。私はそこでナチの衣装を身に着けて、いつものギミックをやって、その後まぶしいプロジェクターをまっすぐに見つめることになっている。そこで1回か2回、落ちそうになったことがあったんだ。演壇の上から見下ろすと、コンクリートの床まで、高さが3メートルほどあってね。だから私はスタッフに、「演壇の裏に金属製のバーを囲むようにつけてくれないか、何だか危なくてね」と頼んだんだ。演壇の上では何も見えないし、バランスも失っている。爆音で耳がダメになっているんで、バランスがうまくとれないんだ。まっすぐ立つ機能というのは内耳にあるからね。バーをつけてもらってからは、ずいぶんやりやすくなったよ。

もうひとつにはもちろん、こういうショーを週に3回も4回もやっていると、とにかくアドレナリンがたくさん出るんだよ。アドレナリンはたいしたドラッグなんだが、ショーをやり終えて1週間も経つと、「ああ、神様、私はもうダメだ」と落ち込んでしまう。ものすごく疲れるんだ。こんなことをもう3年もやっているんだよ。

ー『ザ・ウォール』の上映後には、ピンク・フロイドのドラマー、ニック・メイスンと一緒に質疑応答にも応じる予定だそうですね。最近のお2人のご関係は?

仲良くやっているよ。先週も家に泊まっていた。

ー最近ではお2人で、ロンドンにあるあなたの母校で行われたピンク・フロイド50周年記念式典に出席されました。当時の印象的な思い出にはどのようなことがありますか

何日か前に、人から勧められて、ジミ・ヘンドリックスの新しいドキュメンタリー作品をネットフリックスで見たんだよ。あまり好きな作品ではなかった。何だか同じことばかりを繰り返していてね。モンタレーの話が多かったな。とにかく、それをきっかけに、私はグーグルでヘンドリックスのロンドンでの最初のギグについて調べてみる気になったんだ。1966年10月1日のことだった。日付まで覚えているのは、私は当時まだリージェント・ストリート・ポリテクニックの学生で、そのギグがちょうど私たちの学期末ライヴにあたっていたからなんだ。会場のスモールホールはプロセニアム形式(注:舞台を額縁のように切り取る構造のステージ形状)になっていて、緞帳がついている、小さな劇場だったよ。ヘッドライナーはクリームだった。彼らがオープニングナンバーとして『クロスロード』を演奏した。そのあとジミが出てきて、クリームと一緒に演奏したんだ。彼は前日にロンドン入りしたばかりだったけど、クリームとジャムセッションしていた。

彼は最初の3~4か月、「ジュニア」ヘンドリックスと呼ばれていたように思う。まだバンドを組んでいなかったからね。彼がまだ、ノエル・レディングとも、ミッチ・ミッチェルとも出会っていない頃のことだ。まあ、母校に行ってみて思い出したのはそんなことだった。

Translation by Kuniaki Takahashi

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