ニール・ヤング、「隠れた名曲」人気ベスト10

3位 「ドント・ビー・ディナイド」


ニール・ヤングの子供時代はつらいものだった。両親の泥沼離婚の後、彼はもっぱら母親に育てられ、町から町へと移り住み、学校では常に新入りの転校生だった。こうしたつらい思い出を詰め込んだのが、長く絶盤となっていた1973年のライヴアルバム『タイム・フェイズ・アウェイ』収録の傑作、「ドント・ビー・ディナイド」だ。彼はこう歌っている。「僕はホワイトバックスを履いていた。パンチは早くて強かった。僕は校庭に大の字に倒れた。そのとき僕は鉄則を学んだ」。そんな生活もバッファロー・スプリングフィールドの人気上昇により終わりを告げたのだが、彼は結局、成功しても幸福にはならないことに気がついたのだった。この曲は彼が書いた最もパーソナルな曲の1つで、1983年以来、3回しか演奏していない。

2位「アムビュランス・ブルース」


『渚にて』のB面を締めくくる「アムビュランス・ブルース」は、意識の流れを編み込んだ驚くほど優秀な大作で、ニール・ヤング最大の詩的業績のひとつとされている。この曲は、リチャード・ニクソン(「これほどまでに息をするように嘘をつける男をはじめて見た」)から、クロスビー・スティルス&ナッシュの悲しい実態(「お前は風に吹かれて小便を垂らしているだけだ。気がついていないだろうが、そうなんだ」)にいたるまで、あらゆることを扱っている。歌い出しはまだましで、「僕らが演奏すると魔法のような空気が流れた」頃の「古き良きフォークの日々」が回顧されている。しかし時が経つにつれ、魔法は薄れていき、憐れみと哀しみが歌詞の中に溶け込んでくる。この曲は長年にわたって棚ざらしにされていたが、1998年のブリッジ・スクール・ベネフィットコンサートで突然披露され、その後2007~2008年のシアターツアーでは毎晩演奏された。

1位「スラッシャー」


クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは1970年作品の『デジャ・ヴ』以降、前向きな仕事をほとんど残せていないのだが、ニール・ヤングはその苦痛な経験にインスパイアされて、素晴らしい曲を書いている。なかでも辛辣だったのは1979年作品の「スラッシャー」だ。この曲で彼は、なぜこのスーパーグループを脱退したのか、理由を明らかにしている。「あまりに退屈だったので、僕はヤツらを残して立ち去った」とヤングは歌う。「ヤツらの存在が僕には重荷だった。道を進むには荷物は少ない方が良い」。ひどい言い方だ。広い意味ではこの曲は、どれほど痛みが伴おうとも、化石にならないためには、前に進んでいくしかないという歌であるともいえる。彼はまた、テレビで「グランド・キャニオンのレスキューターの活躍」を見てこの曲を書いたとも振り返っている。シットコムの『ゆかいなブレディー家』のことを言っているのではないかと見る向きもあるが、その番組の放送はヤングの子供時代だったので、おそらくヤングは50年代のウェスタン映画でも見たのではないかと思われる。

1978年の『ラスト・ネヴァー・スリープス』ツアー以来、ヤングはこの曲を演奏していなかったのだが、昨年いきなり、ロサンゼルスのシアター・ショーで取り上げた。そのことをヤングはこう説明している。「この曲はこれまであまり演奏してこなかった。というのも、私が精神的に参っているときに、この曲のレヴューを読んだんだ。これまでに見たこともないような最低のレヴューだった。評論家たちに言っておく。自分のレヴューには何の意味も無いなと思うくらいが、おそらく正しい。でもこのケースでは、実害があったんだ」。読者投票でこの曲が1位になったことで、「スラッシャー」はファンから愛されていると、ヤングに安心してもらえると良いのだが。

Translation by Kuniaki Takahashi

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