音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

Photo: (Michael Ochs Archives/Getty Images)


15位 ジョン・コルトレーン『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1962年)

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1961年11月、ジョン・コルトレーンと彼のバンドの多彩な顔触れがマンハッタンのクラブで録音を行った4日間では、アルバムに収録された3曲以外にもたくさんの音楽が披露された。後に発売されるアルバム『インプレッションズ』の収録曲の多くもこの時のギグから発想を得たものである。しかしライヴ・アルバム『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』はアルバムと呼べるものなのかとよく議論の的となっている。際限なく続くジョン・コルトレーンのソロ演奏は才気溢れる革新的なものなのか、それともあるレビューで評されていたように「ジャズの名を借りて商売を行う、音楽的につまらないもの」なのかで当時のジャズ界の意見は真っ二つに分かれていた。ダウンビート誌がこのアルバムのリリースについてコルトレーンに自己弁護するよう打診した際、彼は「ミュージシャンがしたいと思う主なことは、宇宙で自分が理解し感じているたくさんの素晴らしいもののイメージを聴き手に与えることである」と粘り強く説明した。アルバム『ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード』の音楽をずばり説明するとすれば、私たちは未来行きの電車であり、あなたは私たちを追いかけた方が良いということである。by Douglas Wolk

14位 サム・クック『ハーレム・スクエア・クラブ1963』(1985年)

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上品なサム・クックは60年代に最もマルチな分野で成功を収めたR&Bスターのひとりである。1963年1月のこの夜、満員になったマイアミのクラブで黒人の観客のためにパフォーマンスをしながら、彼は今まで秘めていたソウルフルな一面を解き放った(彼は「抗わないで。一緒に感じよう」と観客に伝えた)。熱狂的な観客とのクックの結びつきは刺激的で、バンドの狂ったようなスイングと『パーティを開こう』や『ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー』といった名曲のアレンジは当時ほかに類を見ないほど激しかった。RCAレコードはこの結果を彼のホップのイメージとしては強烈過ぎると考え、このパフォーマンスを封印した。そのため彼らが実際にリリースしたライヴ・アルバムは比較的抑えめな1964年の『ライヴ・アット・ザ・コパ』であった。本アルバムは最終的に20年の時を越えてリリースされ、批評家から高い評価を得るにいたった。by Jon Dolan

13位 チープ・トリック『チープ・トリックat 武道館』(1979年)

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チープ・トリックは1978年の終わりまでに3枚のアルバムを発売し、『サレンダー』や『甘い罠』などの素晴らしい楽曲を多数世に出したが、まだアメリカの大勢の観客を惹きつけることができなかった。彼らは日本で絶大な支持を獲得し、ワイルドな音楽の夜をもたらすべく1978年4月に東京の日本武道館に到着した際はビートルズ並みの歓迎を受けた。このアルバムは当初日本国内のみでリリースされたものだが、アメリカのラジオ局が『甘い罠』のライヴ・バージョンを流し始め、輸入盤がかなりの高値で取り引きされるようになったため、レーベルがアメリカ国内でもリリースするという英断を下した。本作品は1979年2月に米国で発売され、『甘い罠』はHot 100チャートの7位に入り、ファッツ・ドミノの『エイント・ザット・ア・シェイム』をカヴァーした曲もラジオで頻繁に流された。「俺たちはその材料を持っていた」とギタリストのリック・ニールセンは2013年に述べた。「俺たちは可能な限りどこでも演奏し、絶えずツアーをこなし、自分たちのしていたことを理解していた」。by Andy Greene

12位 マディ・ウォーターズ『マディ・ウォーターズ・アット・ニューポート』(1960年)

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世間はニューポート・フォーク・フェスティバルでエレクトリック系にシフトしたボブ・ディランの話題でもちきりだったが、マディ・ウォーターズは電子楽器の使用においてディランよりも5年は先を行っていた。フォーク回帰の風潮が高まるなか、このシカゴのエレクトロ・ブルースのアイコンはにぎやかで恐ろしいほどに力強いコンボをニューポート・ジャズ・フェスティバルで披露した。『ガット・マイ・モジョ・ワーキング』でのウォーターズの雄牛が吠えたような歌声と鋭いギター音やバンドのスイング演奏を聴いて落ち着いていられる人などいなかった。マディ自身でさえだ。彼はハーモニカ奏者のジェイムズ・コットンが十分に演奏できるようにマイクを離し観客は大歓声を上げた。フィナーレでは、ウォーターズが『ガット・マイ・モジョ・ワーキング』のせいでこれ以上歌うことができないほどに疲れ果ててしまったため、詩人のラングストン・ヒューズが即興で作詞した『Goodbye Newport Blues』をピアニストのオーティス・スパンが代わりに歌い上げた。ライヴ・アルバム『マディ・ウォーターズ・アット・ニューポート』は瞬く間に若きブルース・ロックファンのためのガイドブックとなった。キース・リチャーズやミック・ジャガーも本作品に強い関心を寄せるファンのひとりである。by David Menconi

11位 トーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』(1984年)

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トーキング・ヘッズはアルバム『ストップ・メイキング・センス』を通して、アコースティック・ギターのデヴィッド・バーンやラジカセを9人のエネルギーに溢れたファンク・マシン(パーラメントとファンカデリックのキーボード奏者のバーニー・ウォーレルやブラザーズ・ジョンソンのギタリストであるアレックス・ウィアーなどのサポート・メンバーを追加したバンド)に成長させた。「幕が開きすべてのものが舞台に上がれば、行き場がなくなるだろう」とバーンはかつて自分でインタビューの真似事をしながら語った。「(この映画は)バンドの物語を伝え、完成した時よりもドラマティックで現実味を帯びている。麻薬でハイになった60分間のようだ」。未来のオスカー受賞者のジョナサン・デミが監督を務め、バンドの自己資金で制作されたこのライヴ映画は、1983年にアルバム『スピーキング・イン・タングス』のPRのために実施された、ハリウッドのパンテージ劇場でのショー3回分を録画したテープをつなぎ合わせたものである。「大きな会場で上映する代わりに地方にある非常に小さな大学の劇場やアートシアターで上映することになったのもバンドの決断だった」と、後にドラマーのクリス・フランツがローリングストーン誌に述べた。「この作品が実際そうだったように成功した理由はただひとつ、アートシアターでの長期上映が可能だったからだ。観客は何度も劇場に足を運んだものだ」。たとえバーンの冷蔵庫並みに大きなスーツのアートワークがなくても、このアルバムはバンドがマニアックな創造性を最も発揮した瞬間を披露するものである。by Reed Fischer

Translation by Shizuka De Luca

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