音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

Photo: (Michael Ochs Archives/Getty Images)


30位 イギー・ポップ&ストゥージズ『Metallic K.O.』(1976年)

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ストゥージズ初のライヴ・アルバムのB面は、今までに録音されたライヴのなかで最も危険なロック・ショーのひとつであると言われている。ストゥージズのフロントマンであるイギー・ポップは1974年2月のギグの数週間前にスコーピオンズという名の暴走族と公共の場で派手に喧嘩をした。そのためライヴにはバンドに投げつけるための果物や野菜、ビン、園芸道具といったありとあらゆる物体を携えたギャングたちが群れをなして現れた。しかしイギーはまったく動じなかった。彼のバンドは飢えて、ほとんど一文なしの崖っぷちだったからだ。セットリストは全体的に曲のチョイスにいたるまでわざと杜撰で調和もなく胃がムカムカするほど適当な構成が取られ、激しい“ふざけんな”という気持ちそのものだった。アルバム収録曲ではない『Rich Bitch』や『Cock in My Pocket』から最もにぎやかでほとんど原曲に即していないカヴァー曲『Louie Louie』へと続く。バンドがまったく愛想よく見せようと思っていないことが分かるのがこの部分だ。ジョー・アンブローズは著書『Gimme Danger: The Story of Iggy Pop』でその晩のポップがステージで話した内容をほんの少し記している。「ストゥージズが嫌いな人は手を挙げて。俺たちはお前たちのことは嫌いじゃない。眼中にもないから」。by Arielle Castillo

29位 フランク・ザッパ&ザ・マザーズ『ロキシー・アンド・エルスウェア』(1974年)

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フランク・ザッパはあらゆるフェーズで、各フェーズを補完するような素晴らしいライヴ・アルバムを作ってきたが、『ロキシー・アンド・エルスウェア』は70年代半ばのザッパの極致と言えるだろう。一流のアンサンブル(キーボード奏者のジョージ・デューク、パーカッショニストのルース・アンダーウッドそして、えー、ギタリストのフランク・ザッパ)をまとめる能力や型破りな方法でやり遂げる能力(彼は時々ハリウッドで録音したものや「ほかの場所」で録音したものを継ぎ目なく並べてひとつの曲として編集する)、アルバム『アポストロフィ(’)』時代の激しいアレンジを成功させる能力をこれ以上ないほどに証明しているのだ。バンドは奇抜さを極限まで高めてパフォーマンスを行う。例えば、インスト曲『エキドナズ・アーフ』はシロフォンとシンセを予測不可能なほどの光速度で奏でた音を使い、ジャズとプログレ・ロックを挟み込んだような16分にわたる曲『ビー・バップ・タンゴ』はデュークが歌うポリリズムに合わせてどう踊るかという説明が含まれている(「あなたはまだアダージョすぎる」とザッパはジョークを言う)。一方でニクソンのパロディ曲『サン・オブ・オレンジ・カウンティー』(歌詞「あなたがそんなにバカだなんてまったく信じられない(I just can’t believe you are such a fool)」)はザッパの魂が最もこもったギターソロのひとつを含んでいる。ザッパは最初にリリースされたCDに禅のような雰囲気のある注釈をつけている、「「宇宙はあなたが理解していようがいまいが関係なく動いている」ということに驚かされることがあるだろう」。by Kory Grow

28位 ラモーンズ『It’s Alive』(1979年)

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ラモーンズのキャリアの回顧録として彼らの絶頂期を反映し、覚せい剤でハイになったようなテンポのこの2枚組のLP盤は、同時期のカリフォルニアでハードコアを偶然見出しかけたクイーンズ出身のバンドがハードコアを創り出す姿を見せるものである。パンクのパイオニアは1977年のロンドンのレインボー・シアターでの4日間で、最初の3枚のアルバムから28曲を爆音で演奏した。(ラモーンズの曲が短くさっぱりとした長さであったおかげで、彼らはほとんどすべての曲を演奏することが可能だった。)最終的なLP盤の大部分は最終日のライヴで演奏された曲であり、あまりにも刺激的なエネルギーに溢れていたので熱狂したファンが床から外した椅子をステージにめがけて投げつけたと言われている。ツバを吐きながら歌うジョーイ・ラモーンは『ピンヘッド』と『ドゥ・ユー・ウォナ・ダンス』、『チェイン・ソウ』の合間でわずかに休止しただけで、アメリカン・パンクの約束のためにアルバム全体が力に溢れていたのは驚くことではない。彼はすべての歌詞を歌いきるのに十分な休息さえほとんど取らず、バンドはジョーイの後ろで機械工場であるかのように楽器をかき鳴らした。録音後の編集作業中、そのスピードはバンド自身でさえ追いつくのに苦労したほど速かった。エヴェレット・トゥルーは著書『Hey Ho, Let’s Go: The Story of the Ramones』で、ディー・ディーはベースのオーバーダブを録音するのに燃料、つまり特別濃いブラックコーヒーを一杯補充する必要があったと記している。by Arielle Castillo

27位 ビル・ウィザース『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』(1973年)

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1972年10月のこの雨模様の金曜日は、ビル・ウィザースが航空機部品の工場での本業を辞められるほどの商業的なブレイクからまだ1年半しか経過していなかったが、この前途有望なソウル・スターは熟練したプロが使う世界で最も権威ある会場のひとつで観客の注目を集めた。ウィザースは祖母の教会にまつわる思い出話にふけったり(「葬式ではよく棺を縛りつけたものだ!」)、デートのエピソードを語ったり(彼は多くの「誰でも信用しすぎる傾向がある女性たち」に出会った)して、彼は自分の家のリビングルームでゲストを楽しませるかのように落ち着いた様子だった。ドラマーのジェイムズ・ギャドソンに勢いづけられ、ピアニストのレイ・ジャクソンにリードされた彼のバンドは、現世欲を強調するため『ユーズ・ミー』を荒々しく演奏し、伝道集会の一幕のような汗臭いクロージング曲『Harlem/Cold Baloney』でショーを終えた。by Keith Harris

26位 ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド『Live Bullet』(1976年)

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1974年9月4日、ボブ・シーガーがデトロイトのコボ・ホールで演奏した時、彼は既に8枚のアルバムをリリースし10年近く真面目にツアーをこなしている最中だったが、アメリカ中西部以外ではまだほとんど認知されていなかった。彼がライヴ・ステージの魔法をスタジオでまったく発揮することができなかったのが主な問題だった。ライヴ・アルバム『Live Bullet』がこんなにも大きな衝撃を与えたのはそのせいなのかもしれない。シーガーによるアイク&ティナの『Nutbush City Limits』のカヴァーは全米のラジオで幾度となく流され、『Live Bullet』は突然狂ったように売れていった。1973年に発売され過去40年間にわたってクラシック・ロック系ラジオの支柱であり続けた、巡業生活の厳しさについて歌った曲『ページをめくって』の人気によってさらにブームは加速した。「『Live Bullet』をリリースする前、俺たちは1年に250~300回のライヴを行っていた」と2013年シーガーは述べた。「実質1週間で5回か時には6回演奏していたことになるから、シルヴァー・ブレット・バンドと俺たちはただこのショーを熟知していただけだ」。by Andy Greene

Translation by Shizuka De Luca

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