音楽史上最高のライヴ・アルバム ベスト50

Photo: (Michael Ochs Archives/Getty Images)


35位 アレサ・フランクリン『アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』(1971年)

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「ブルースを聴きたい気分の人はいますか?」アレサ・フランクリンは『ドクター・フィールグッド』の演奏を始める前にこう質問した。彼女は本当にそんな質問をしなければならなかった。当時、サンフランシスコの会場フィルモア・ウェストはジェファーソン・エアプレインのようなロック・バンドのライヴを開催することで知られていたからだ。彼女はおしゃべりの音をかき消すためにショーの序盤でサイモン&ガーファンクルのカヴァーさえ披露した。しかし先ほどの質問をする頃には観客が大きな声でイエスと答えた。フランクリンの返答には聞く価値が十分にあったのだ。彼女は『ドクター・フィールグッド』の演奏中、性的であり宗教的な印象がするほどに陶酔して頭をのけぞらせた。そして『スピリット・イン・ザ・ダーク』を二度目に演奏した時にはレイ・チャールズが登場した。彼はステージに上がるつもりではなく、ショーを観るために会場にいただけだった。彼は「このアルバムを聴けば、私が何も知らなかったことが分かるだろう」と1973年、ローリングストーン誌に語った。by Christina Lee

34位 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『ライヴ』(1975年)

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ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズによる1975年の『ナッティ・ドレッド』のPRツアーは、1万5000人のファンがレゲエ・バンドのパフォーマンスを観るために集まった、アメリカのセントラル・パークを皮切りにスタートした。ツアーは太平洋を横断するまでに評価が定まったと言える。ロンドンのライシアム公演のチケットが完売した後、メロディ・メイカー誌は巻頭記事でボブのことを「ひょっとしたらディランが英国のコンサート・ホールを征服した時代以降、この国に上陸したなかで最も偉大なスーパースター」であると宣言した。これらのギグはいずれも録音される予定ではなかったが、アイランド・レコードの創立者クリス・ブラックウェルが最初のショーの狂気を目の当たりにしてすぐに、二度目のライヴ会場の外にザ・ローリング・ストーンズの移動スタジオを設置する手筈を整えた。その結果、辛辣な歌詞と抜け目のない歌唱、新しいギタリストのアル・アンダーソンによって勢いづけられたファンク・グルーヴが詰まった素晴らしい曲のコレクションができ上がった。7分にわたるシングル『ノー・ウーマン、ノー・クライ』は英国チャートでトップ10入りを果たし、今でもこの最高傑作の決定版であり続け、最終的には15回プラチナ・ディスク認定を受けたベスト・アルバム『レジェンド』の2曲目に選出されている。最初の序奏部に被さったマイクのハウリングにさえ感情がたっぷりしみ込んでいた。by Nick Murray

33位 フェラ・ランサム・クティ&ザ・アフリカ70・ウィズ・ジンジャー・ベイカー『Live!』(1971年)

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ジンジャー・ベイカーは、クリームやブラインド・フェイスで3年間活躍したことでロック界の偉大なドラマーのひとりとして既に称賛を受けていたが、リズムをもっと学びたいという好奇心に駆り立てられてイングランドから戦争で苦しむナイジェリアへと向かった。「俺は踊らない」と、質問してきた旧友のフェラ・クティによる新しいバンド、アフリカ70にベイカーは答えた。「でもフェラの曲なら踊らないといけないな」。実はこの親密なコラボレーションは伝統的なロック・ライヴの会場ではなく、スタジオのアビイ・ロードで録音されたものであるのに本当に刺激的だった。ベイカーは自伝で次のように語っている。「150人の観客が色付きのスポットライトが設置された広いスタジオに押し込められ、壁の側で踊りまわった様子は本物のライヴ・ギグのようだった」。ベイカーとアフロビートの職人トニー・アレンがグルーヴを巧みに操り、世界一ファンキーなバンドのひとつが少し自由なロックをお見舞いした。by Christopher R. Weingarten

32位 ディープ・パープル『ライヴ・イン・ジャパン』(1972年)

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ディープ・パープルはたったの7曲で興奮と気ままさを惜しむことなく発揮している。『ミュール』でのイアン・ペイスによる眩暈がするようなドラムソロから、ジョン・ロードによる『レイジー』の出だし部分の軽やかなオルガンの即興演奏、さらに20分にわたる『スペース・トラッキン』でのトリッキーなエンディングから、『スモーク・オン・ザ・ウォーター』でのイアン・ギランとリッチー・ブラックモアによるヴォーカルとギターの掛け合いなど、メタルのパイオニアである彼らはステージ上で使うトリックとアイデアのほぼ完全なスキルのコレクションを強引に手に入れた(そしておそらく確立した)。気軽に作られたものだが、非常に人気があり何度も再販されたこのアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』は大阪と東京での3日間を記録したものである。この時のパフォーマンスはとてもカジュアルな雰囲気で、まるでバンドが観客もしくはテープ・レコーダーのせいで少し控えめに演奏しているのか、それとも子供が遊ぶみたいにこれらの曲を思い切り演奏するという純粋な喜びのためにのびのびとパフォーマンスしているのかと思わせるものだった。「実は俺たちはまったく何も考えておらず、誰ひとり録音されていることに気づかなかったほどだ」と、ロードは後にデイヴ・トンプソンの著書『Smoke on the Water』で認めている。「自分たちが普段ステージに上がる時と同じように相互作用や自発性、感情を抑えたなんてことは一切ない」。by Grayson Haver Currin

31位 キース・ジャレット『ザ・ケルン・コンサート』(1975年)

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1975年1月、ピアニストのキース・ジャレットとECMレコードのオーナー兼プロデューサーのマンフレート・アイヒャーがドイツのケルンにやって来た時の状況は最悪だった。ジャレットは前の晩、睡眠を取っておらず痛みに苦しみ、さらにひどいことに彼らがリクエストしていたベーゼンドルファー製のピアノの代わりに質の悪いモデルが用意されていた。ジャレットによると、そのピアノは「なかに留め金がついたハープシコードかピアノの本当に粗末な模造品みたいな音がした」という。しかし、ケルンのオペラ劇場で深夜に実施された1時間にわたる彼のソロ・コンサートはリズムの瞑想に深く入り込ませるようであり、彼は矯正器具をつけてピアノを弾きながら眠ってしまいそうになった。その時の演奏が収められた2枚組のレコード盤はソロ・ジャズとソロ・ピアノの両ジャンルにおいて歴史上で最も売れたアルバムとなった。ジャレットが即興で演奏する幻想曲は次々と絶え間なくアイデアが溢れ出し、数分間同時にふたつのコードを即興で演奏し続けることもある。このライヴ・アルバムはジャレットのほかのソロ作品と比べてゆったりとした感じだ。即興演奏の技術を魅惑的に披露する一方で、叫び声を上げてため息をつき皆を夢中にさせるような彼の気取った態度の完成形として誇れるものだ。by Richard Gehr

Translation by Shizuka De Luca

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