モンティ・パイソンのエリック・アイドル、著作で60年代の喜劇界や音楽界を回想

―若い頃にお父様が他界されて、お母様はあなたを全寮制の学校に入れたようですね。その経験がユーモア・センスにどんな影響を与えたのですか?

侘しさから面白さを見つける術を学んだよ。あそこは刑務所と軍隊の中間みたいなところだった。だから、自分なりの面白さを作らざるを得ないし、ある意味で人生の教訓を学んだって感じさ。

―本の中で、パイソンのユーモアは原則から外れていたから独特だったと書いています。その方向性に決めた理由は何ですか?

あれは当時の風潮だった。私たちは風刺を追いかけた。大学生の頃、イギリスでは一大風刺ブームがあったんだ。(ステージ・レビューの)「Beyond the Fringe(原題)」が発端で、デヴィッド・フロストがテレビで「That Was the Week That Was(原題)」という番組を始めるに至った。これが政府も変えた。保守派がお払い箱になり、風刺が抗議の声となり、私たちがテレビに出るようになった頃には、その風潮が何年も続いていたし、かなり練り込まれたテーマだった。だから、私たちはもっと抽象的だったり、馬鹿げていたり、総合的に可笑しい方法を見つけ出さないといけなくてね。私たちには名前のないキャラクターを生み出す傾向があって、それが「首相」だとははっきり分からないようにしていた。国会議員全体をパロディにしていたのであって、特定の大臣ということではなかった。

それがあったから、思ったよりも長持ちしたんだ。戻らなくてもいいからね。ほら、サタデー・ナイト・ライブはよく過去に戻るだろう。あの番組では「あれっ、あれは誰だ? ああ、そうか、フォード将軍か。おや、彼はよく転ぶなぁ」というように、面白くするために最初から話を作り直さないといけない。一方、私たちの番組では、初めから必要な事情や背景が最低限に抑えられている。だから、例えば「馬鹿っぽく歩く大臣」なら、それに関する情報は全部そこにあるわけだ。それが50年近くもっている理由だよ。



―本の中ではっきりと書かれていないことの一つが、あなたたちがテレビに出るようになったきっかけです。大学からいきなりThe Frost Reportの脚本を書くようなったわけですが、その経緯は?

私たちは英ケンブリッジ大にあるアマチュア演劇クラブ・フットライツ(フットライツ・ドラマティック・クラブ)に所属していて、そこで脚本を書き、パフォーマンスし、(コメディを)学んでいた。そのあと、エディンバラ・フェスティバルに出演し、レビューでツアーを行い、キャバレーに出演した。そのとき、デヴィッド・フロストがそこで私たちを発見したし、ハンフリー・バークレイもそうだった。だから、すぐにラジオやテレビに出演するようになったんだ。あれこれ迷うこともなかったし、あの当時のラジオやテレビはまだ創成期だったから、かなり特殊な環境だった。テレビやラジオの仕事をしている人は稀だったし、まだ仕事としてはっきり決まっているものが少ない時代だった。そういう時期にこの業界に入って、自分たちですら何をしようとしているのか分からない状況で様々なことをさせてもらえたのは、本当に幸運だったと思う。

Translated by Miki Nakayama

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