ピンク・フロイドは結成当初、『The Committee』(1968年)、『モア』(1969年)のほか、アルバム『雲の影(原題:Obscured By Clouds)』となった映画『ラ・ヴァレ(原題:La Vallée)』(1972年)など、サウンドトラックを得意としていた。さらに、『砂丘(原題:Zabriskie Point)』(1969年)をはじめイタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニの作品にも何曲か提供している。ライト作の『The Violent Sequence』もその中の1曲だったが、アントニオーニ監督は採用を見送った。ウォーターズによれば、アントニオーニは「美しい曲だが寂しすぎる。教会を思い起こさせる」と述べたという。同曲はアルバム『狂気』の製作が始まるまで棚上げされていたが、ウォーターズが歌詞を付け、『アス・アンド・ゼム』として仕上げられた。ライトは、エモーショナルで熱くパンチの効いたバック・コーラスを聴かせている。
9. 『シープ(原題:Sheep)』(1977年)
ピンク・フロイドの歴史の中で、この時代はウォーターズの支配力が増し、アルバム『ファイナル・カット(原題:The Final Cut)』(1983年)を最後にバンドを去るまで、アルバム製作ごとにウォーターズのソロ作品の色が濃くなっていった。アルバム『アニマルズ(原題:Animals)』では1曲を除き全て彼のみのクレジットだったが、他のメンバーも依然として自分の存在感を示していた。『シープ』はヒツジの鳴き声から始まり、フェンダー・ローズを弾くライトの90秒間のソロが続く。スーパートランプ風の即興演奏は、アルバムで聴けるライトの名演奏のひとつで、変化を遂げるバンドにおけるライトの最後の絶頂期だった。ライトのバンドへの貢献度は徐々に低下し、『アニマルズ』では初めて彼のクレジットが見られなかった。その後、バンド内の緊張感が高まっていく。
10. 『Against the Odds』(1978年)
1977年のイン・ザ・フレッシュ・ツアー(In the Flesh Tour)中、バンド内の緊張関係は高まっていった。ウォーターズは、各コンサート会場へひとりで移動し、ショーが終わるとすぐに立ち去るようになっていた。著作権料は曲ごとに支払われることになっていたため、これがさらに対立を深める原因となった。ツアー後にライトは脱退を示唆し、ソロ・デビュー・アルバム『Wet Dream』(1978年)の製作に入った。「ソロ・アルバムに取り組むことは、次のフロイドの活動へのクリエイティブなエネルギーを取り戻す助けとなった」と、当時ライトは語っている。アルバム中で最も感動的な曲は、元妻のジュリエットと共同制作した『Against the Odds』だった。彼女はジュリエット・ゲイル名義でシンガーとしての活動経験があり、後にピンク・フロイドとなるバンドのひとつでも歌っていたことがある。ライトはジュリエットと1964年に結婚している。『Against the Odds』はアダルト・コンテンポラリーのトーチ・ソングで、苦しい男女関係を歌っている。「わからない。どうして続けなければならないのか。今夜はもう喧嘩したくない」とライトは嘆く。1982年に2人は離婚している。
11. 『ウェアリング・ジ・インサイド・アウト(原題:Wearing the Inside Out)』(1994年)