追悼バート・レイノルズ 成功と転落に左右されない「気楽さ」の由来

JON BLISTEIN | 2018/09/07 13:56

| 人々に愛されたスター、バート・レイノルズが82歳で死去(Photo by Terry Disney/Express/Getty Images) |



レイノルズは1936年にミシガン州ランシングで生まれたが、幼少期は陸軍勤務の父親の転勤で繰り返し引っ越しを余儀なくされた。高校時代はアメリカンフットボールの州代表チームのフルバックを務め、フットボール奨学金でフロリダ州立大学へ進学。将来はNFLのプロ選手になるつもりでいたが、故障続きでフットボールを諦めざるを得なくなった。しかし、この不運がレイノルズをパーム・ビーチ・ジュニア・カレッジへと導き、そこで彼は演技の師となるワトソン・B・ダンカン3世と知り合うことになる。

プロの俳優となったレイノルズは当初舞台俳優として『Look, We’ve Come Through(原題)』『Mister Roberts(原題)』などのブロードウェイ作品に多数出演していた。その後、TVや映画に時々出演するようになったが、彼は生活費を稼ぐために皿洗い、配達係、バーテンダー、港湾労働者などを続けた。

ハリウッドに移ったレイノルズは、長く続いているテレビの西部劇シリーズ『ガンスモーク』にキャスティングされるが、これ以外に60年代から70年代初めに携わったプロジェクトはすべて鳴かず飛ばず。しかし、『ガンスモーク』出演に加えて、ジョニー・カーソンとの友情とザ・トゥナイト・ショーへのレギュラー出演によってレイノルズの知名度がうなぎのぼりとなる。

レイノルズがブレークしたのがこの年である。『脱出』が彼を映画スターに押し上げた一方で、1972年のコスモポリタン4月号に掲載された熊の皮の敷物の上で裸でポーズする写真で、レイノルズはセックスシンボルとしての地位を確立した。その後、彼を待っていたのは『白熱』『ラッキー・レディ』『トランザム7000』など、数多くの映画作品での主演だった。また、1976年に初監督作品『ゲイター』製作中に音楽にも進出し、ソロ・アルバム『Ask Me What I Am(原題)』をリリース。1978年には人気絶頂期を迎え、レイノルズ主演映画が4本同時に公開されることもあった。

しかし、一方でアクション映画出演がレイノルズの仕事に支障を来すことがあった。自分でスタントを行うことが多かったせいだ。とはいえ、レイノルズはロマンチック・コメディ作品にも数多く出演し、キャンディス・バーゲン(『結婚ゲーム』)、ゴールディ・ホーン(『結婚しない家族』)、ドリー・パートン(『テキサス1の赤いバラ』)など、多数の大スター女優たちと競演していた。ただ、レイノルズのキャリアで異彩を放っているのは彼が出演を断った役柄だろう。レイノルズがジェームス・ボンドとハン・ソロを断った話は有名である。また、ジェームズ・L・ブルックス監督作品『愛と追憶の日々』への出演も断っている。代わりにキャスティングされたジャック・ニコルソンはこの作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。
Translated by Miki Nakayama

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