来日目前のデュア・リパにNYで密着取材「自分がやるべきことの意味」

2週間ほど前、リパはグラミー賞の授賞式を見ていて、ケンドリック・ラマーのパフォーマンスに度肝を抜かれた。この授賞式は非常識な進行で批判を受けている。つまり、授賞式で賞を受けた女性がアレッシア・カーラだけだったこと、最優秀アルバム賞にノミネートされていたにもかかわらずロードのパフォーマンスがオファーすらされていなかったことだ。レコーディング・アカデミー会長のニール・ポートナウが女性の音楽制作者に「もっとステップアップしろ」と発言して自身の差別意識をさらけ出した瞬間に、イベントに空いていた穴はますます深くなった。この話題になるとリパは目を見開いて、こう言った。「女性はみんなステップアップしている。私たちに必要なのはチャンスなの」と(ポートナウはのちに、自分の発言を謝罪した)。リパは頭を振りながら「権力を持つ男たちが今世間で起きていることや男女平等を支援するべきなのよ。『お前らは努力が足りない』とか言う前にね」と言った。


ブリッド・アワードでパフォーマンスをするデュア・リパ

リパは自身が成長する過程で、実体験を通して仕事の意味を覚えたという。ロンドン生まれの彼女の両親は、紛争が始まったコソボを脱出したアルバニア人だ。彼女の両親は移民としてレストラン、バー、コーヒーショップなどで仕事を掛け持ちして、ロンドン移住を成功させようと努力した。「両親は本当に、とても一生懸命に働いたし、必死に働きながらも父は夜学に通って経営学の学位を取って、その後にジャーナリズム学の修士も取って、広告の仕事をするようになった。母は紛争が始まる前にコソボで法律の学位を取っていたけど、ロンドンに移住した後で旅行とツーリズムを学んだの」

コソボでは副業でOdaというロック・バンドでリード・ヴォーカルをしていた彼女の父親のおかげで、リパの家には常に音楽があった。「父たちは趣味でやっていたの」とリパ。「でも彼らは大ヒット曲を出してしまった。“Beso ne Diell”という曲で、“太陽を信じる”という意味よ。2年くらい前にコソボでライブを行ったんだけど、そのときに私のバンド・メンバーと父を驚かすことにして、この歌を歌ったの。観客全員が一緒に歌ってくれて、本当に夢心地だった」

彼女が思春期に入った頃、リパの家族はコソボの首都プリシュティナに戻った。「アルバニア語を喋ることはできたけど、読み書きはできなかった。だからこの引っ越しにはかなりヘコんだの。だって他の子は宿題でスペルミスをする年齢じゃなかったんだもの。それだけじゃなくて転校生っていうのもつらかった。みんな友達関係が出来上がっていたから。精神的にかなり辛かった」とリパ。

しかし彼女は友達を作り、彼らを通してヒップホップを知ることになったのだ。彼女が初めて行ったコンサートはメソッド・マンとレッドマン。その次が50セントだった。

15歳になったとき、音楽活動を試してみたいと思い立ったリパは、自分ひとりだけロンドンに戻りたいと両親を説得した。そしてリパ家と仲の良かった家族の家に住み、シルヴィア・ヤング・シアター・スクールへ入学することに。この学校の卒業生にはエイミー・ワインハウスとリタ・オラがいる。2~3年後、リパは「大学に行って何を学びたいのかを考える時期がやってきた」が、「何をしたらいいのか分からなかった」らしい。「自分がやりたいことは音楽だってことはわかっていた。だから『1年間だけトライして、どうなるのか様子を見たい』と思ったの」。その1年間が終わる前に、彼女はメジャー・レーベルとの契約に漕ぎ着けたのである。

Translated by Miki Nakayama

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