「前向きに音楽制作に取り組んでいた」アヴィーチーの最期の日々を友人たちが語る

そのペースがあっという間に彼を消耗させた。2012年、急性膵炎になった彼はニューヨークで1週間以上入院することになる。この原因の一つが過剰な飲酒。彼は人前に出るときの緊張を和らげるために飲んでいたと説明した。そして2014年3月、医師たちから胆嚢を切除する助言を受けて1年後(彼は仕事を理由に手術を延期していた)、やっと手術を受けたのである。そのときの模様をサンディンが説明した。「彼は耐えられないほどの痛みに襲われた。私たちは『どうなるんだ?』と気が気ではなかった。その頃の彼の食生活は最悪で、バスで寝て、酒を飲んでいたからね。そんなことを続けていたら、普通の人間ならじきに身体が悲鳴をあげるはずさ」と。

手術後、アヴィーチーは予定されていたライブをすべてキャンセルし、2015年アルバム『ストーリーズ』でシーンに復帰した。このアルバムは2013年の『トゥルー』ほどは売れなかった上に、彼を昔から知る友人たちはこの頃の彼に精神的な疲労を感じ取っていた。アヴィーチーの初期の作品で楽器を担当していたオランダ人DJ・プロデューサーのレイドバック・ルークが、2015年にイビザで会ったときのアヴィーチーを「まるで歩く屍のような状態だった」と表現した。「激ヤセしていて、会っていなかった5年間で老化していたんだよ。あれは相当ショックだった」と。2016年にアヴィーチーはツアーから撤退することを表明した。ジェイコブソンが説明する。「プロダクションが巨大になりすぎて、手に負えなくなったんだ。彼には二面性があって、演劇の舞台のような巨大なステージをやりたい気持ちがある一方で、非常に控えめで地味な性格でもあった。その両極端の間でどうしようもなくなっていて、手に負えない人生に押しつぶされるようになってしまったんだよ」

ツアーのプレッシャーから解放されたアヴィーチーは、始めた頃と同じように自宅での音楽作りに戻った。伊トスカーナ地方にあるぶどう畑にスタジオを作り、カムバックに照準を定めたのである。マネージメントを変え、レーベルを変え、まず3枚のEPをリリースする計画を立てた。最初のEPは2017年の夏に出た。アヴィーチーが遺したおおよそ300曲のうちの1曲で彼と作業を行ったアインジガーは、アヴィーチーの変化を感じ取ったという。「もう骸骨みたいじゃなくて、健康的で、太陽の下で生活しているって感じだった」と。

オマーンに出発する前、アヴィーチーはロサンゼルスにあるホームスタジオにジョー・ジャニアックを招いた。ジャニアックはトーヴ・ロー、エリー・ゴールディングとのヒット曲で知られるソングライター・プロデューサーだ。二人は何週間も作業を続けて新曲を作り、アヴィーチーがピアノを弾き、歌詞を書いた。そのとき、アヴィーチーが新たな音楽制作の段階に入ったとジャニアックは思ったと言う。「彼が長い時間をかけて問題を解決したことが見て取れたし、自分の人生の責任をしっかりと取ろうとしていた。とても前向きな印象だった。だから、本当にショックだったよ。だって自殺するようには見えなかったんだから」とジャニアック。アヴィーチーはオマーンから戻ったら連絡するとジャニアックに告げた。そして、翌朝出発するためにスーツケースに荷物を詰めると言って帰って行った。

Translated by Miki Nakayama

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