「前向きに音楽制作に取り組んでいた」アヴィーチーの最期の日々を友人たちが語る

2009年、アヴィーチーはエレクトロ・ハウスのシングル「Ryu」をリリースし、マイアミに行っては、そこで行われる様々なEDMパーティでDJをするようになった。「彼は子どもに見えたし、あの童顔に神経質さも見て取れたが、本当に才能があった」と、プロモーターのルイ・ディアスは言う。アヴィーチーのキャリアが本格的に始動したのは2011年の「レヴェルズ」がきっかけだった。エタ・ジェイムズのサンプルを入れ込んだプログレ・ハウスのシングルだ。結果は、レーベルによる彼の争奪戦が激化し、契約金は(ドル建てで)6桁まで上昇した。最終的にアイランドと契約し、ほどなくDJライブ1回の出演料が25万ドル(約2700万円)となり、ラルフ・ローレンの広告に登場するようになった。

EDMが世界的な一大ムーブメントに拡大するにつれて、アヴィーチーのジャンルにこだわらない姿勢がシーンの中で突出するようになった。2013年にマイアミで行われたウルトラ・ミュージック・フェスティバルで、彼は新曲「ウェイク・ミー・アップ」を初披露した。ブルーグラスとハウスをブレンドしたギターのストラミングが心地よいアンセムだ。このとき、彼はバンジョーとバイオリンのバンドを従えてプレイしたのだが、会場はブーイングの嵐だった。それにもかかわらず、この曲はセールスが累計400万枚、22カ国でナンバー1ヒットとなった。


(Photo by Mike Lawrie/Getty Images)

「僕は魂を売り渡したとは思っていないよ」と、2013年のローリングストーン誌の取材で、ダンス・ミュージックの純粋主義者たちからの否定的な反応について彼は反論した。「これが普段聴いている音楽だし、大好きな音楽なんだから」と。アヴィーチーは「ウェイク・ミー・アップ」をシンガーのアロー・ブラック、インキュバスのアインジガーとともに作った。「音楽を作っている彼の姿はまるでビデオゲームで遊んでいるみたいだったよ」とアインジガー。「作業スピードがとてつもなく速くて、サウンドがスピーカーから聴こえなかったら、ニンテンドーで遊んでいると勘違いしてしまうほどさ」

2014年には、出演料が世界で3番目に高いDJとなり、マドンナ、レニー・クラヴィッツ、ザック・ブラウン、そして彼の憧れのコールドプレイとコラボレーションするようになっていた。また、彼の芸名はブランドとなり、マイアミにある彼のポップアップ・ストアでは様々な製品が売うられていた。「この規模で音楽を作ったり、ツアーしたりする将来は描いていなかった」と、当時のローリングストーン誌の取材で彼は答えている。「全てがあっという間に起きてしまって自分でもよく分かっていない。とにかく、休む間もないほど忙しいんだよ。キャリアが始まった頃から仕事量が正気の沙汰じゃない。ほんの少し休むことすらできないでいる」と。

Translated by Miki Nakayama

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