ボン・ジョヴィ、ロックの殿堂入りスピーチ全文:メンバー全員で35年の歩みを振り返る

ジョン・ボン・ジョヴィ
ハワードはクリーブランドに来るにはパスポートが必要だと思っている唯一のアメリカ人だ。ありがとう、友よ。殿堂入りを授与する役は君しかいないと真っ先に思ったよ。

子どもの頃に住んでいた家の階段の一番上で、ホウキをギターみたいに弾きながら歌を歌ったときから、俺はこんなスピーチを書いていた。何度も、いろんな書き方で書き直した。サンキュー・スピーチを書く日もあれば、ファックユー・スピーチを書く日もある。そんなふうに書くことがいろんな意味でセラピーとなった。今夜の俺の考え方は、10年、20年、30年前の俺とは当然違う。結局、すべては時間が握っているってことだ。

今夜、俺たちがここに来る途中でたくさんの人が関わったし、その全員がファッショニスタってわけじゃない。

俺が初めて音楽を知ったのは7歳のとき。母が何かと交換したギターとケニー・ロジャースの『Learn to Play Guitar』というレコードを持って帰宅した日だ。子どもの俺に両親はレッスンを受けさせてくれた。先生は小さなパーテーションの中でパイプをふかしていて、スケールの教則本を開くだけで、パイプの煙とヤル気のなさで子どもたちをいじめていた。2週間ほど通って俺はやめた。そして、ギターを階段の上から地下室へ放り投げたら、都合よくチューニング用のペグが壊れた。そのギターは俺が15になる頃まで地下室で眠っていたよ。その頃、近所にアル・パリネロという男が越してきたんだ。アルはラウンジや結婚式で演奏していて、本当にいい人、家庭人だった。彼は俺を含む数人の子どもに興味を持ち、俺たちに幾つか曲の弾き方を教えてくれた。

アルの教え方はパイプをふかしていた先生とは全然違っていた。ショッピングセンターで教えていたあの先生はスケールを練習して、残りは居眠りしているようなヤツだったから。ただ、俺はすぐには覚えられなくて、上手くもなかった。でもアルは魔法の曲を教えてくれた。

最初は、アニマルズが演奏する「朝日のあたる家(原題:House of the Rising Sun)」。アルと一緒に時間をかけてゆっくりと練習した。その次がシン・リジィの「The Boys are Back in Town(邦題:ヤツらは町へ)」。俺はけっこういい加減にやっていたけど、練習はやめなかった。2週間くらいして、普段落ち着いた物腰のアルが声を荒げて「もう時間の無駄遣いはやめる。来週できなかったら、それで終わりだ!」と、俺に向かって叫んだ。それが効いた。それ以来、今でも俺は毎日練習を欠かさない。アルは1995年に亡くなってしまった。それ以来、俺のギターにはA.P.のイニシャルが刻まれていて、毎日練習することのリマインダーになっている。そのことに感謝したい。アル・パリネロ、ありがとう。

将来、有名なロックバンドに入ることを夢見てガレージで練習している子どもはどこにでもいたし、俺も同じだった。仲間の家の地下室と俺の家の裏庭で始まった。地元のタレント・ショーでプレイして2等賞になった。それでブロック・ダンスで演奏するようになり、その後クラブに出演するようになった。そこで自分たちが最高だと思うことを垣間見た。17歳で10人編成のバンド、アトランティック・シティ・エクスプレスウェイを結成して、子どもの頃に憧れていたアニマルズ、シン・リジィ、スプリングスティーン、サウスサイド・ジョニーの曲を演奏した。

デヴィッド・ブライアンがこのバンドにいた。ブライアンは出番の前にファスト・レーンの地下室で宿題をやっていた。ここで、俺はデヴィッドの父親のビッグ・エドに感謝を伝えたい。今夜、彼がここに降りてきて俺たちを見守っているはずだから。ビッグ・エド、バンを貸してくれて、いつも俺たちを元気づけてくれたよね。ありがとう。

18歳になる頃には、音楽には2つの道があることに気付いていた。つまり、趣味としてやるか、真剣勝負でやるかの2つ。カバーバンドは確かに稼げる商売だったし、女の子もたくさん集まってきた。でも未来はなかった。

だから、俺は自分が組んだバンドをやめて、オリジナル曲をやるバンドにヴォーカリストとして加入した。俺たちはザ・レストと呼んでいたけど、このバンドは長続きしなかった。でも、ジャック・ポンティには感謝している。俺を受け入れてくれて、駆け出しの俺を育ててくれた。ありがとう、ジャック。

1980年の秋、高校もザ・レストも卒業した俺は、機会があれば自分のバンドでフロントマンをしながら、ニューヨークのパワー・ステーションで雑用をしていた。ここからの2年間は俺の“大学時代”と言える。曲作り、歌、演奏、観察、学びの繰り返し。スタジオではこの栄誉の殿堂を飾る多くの男女を見た。

ストーンズ、クイーン、ボウイ、ブルース、ディラン、シェール、シック。リトル・スティーヴンのレコードには手拍子で参加したし、スター・ウォーズのクリスマス・レコードでは歌を歌った。スタジオのマネージャーと付き合っていたマーク・ノップラーに、俺が持っていた『メイキング・ムーヴィーズ』(※ダイアー・ストレイツの3枚目)のコピーを貸してくれと言われたのを覚えている。俺はサインしてくれるなら貸してもいいと返事した。今でもそのコピーを持っているし、今でも彼らの大ファンだ。マーク、そしてダイアー・ストレイツ、おめでとう。



1982年になる頃には、かなりの数の曲を完成させ、録音も済ましていたが、その中に1曲だけ飛び抜けていいものがあった。それが「夜明けのランナウェイ(原題:Runaway)」。思いつく全てのレーベルとマネージャーにカセットテープを送った後、俺は「音楽業界で一番寂しいヤツって誰だろう?」と考えた。俺の答えは「DJだ!」 ニューヨークには開局したばかりのWAPPというラジオ局があった。まだ受付もいなくて簡単に局内に入ることができて、うろついていたらジョン・ラストマンとDJのチップ・ホバートに見つかった。彼らに持参したカセットに曲が入っていると伝え、どこのレーベルも聴いてくれないと愚痴をこぼした。チップが聴いてくれて、地元のオリジナル音楽を集めた局のレコードに入れるべきだと言ってくれた。

それから数カ月後、「夜明けのランナウェイ」はラジオで流れていた。それもニューヨークだけではなく、タンパ、シカゴ、デトロイト、デンバーの他、多くの都市のラジオ局でかかっていた。だから、自作曲を披露するショーケースを行う必要があると俺は思った。でも、一緒に演奏するバンドがいなかった。そこで、デヴィッドに連絡した。彼はまだプレイしていたが、彼の母親の言葉に従って、進学して医者になるつもりでいた。

Translated by Miki Nakayama

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