レッド・ツェッペリン『聖なる館』:知られざる10の事実

JORDAN RUNTAGH | 2018/04/03 21:00

| 1973年6月5日、レッド・ツェッペリンのメンバー (Photo by Michael Putland/Getty Images) |

ジョージ・ハリスンによるアドバイスからジェームス・ブラウンへのオマージュ、ミック・ジャガー別荘でのレコーディングまで、1973年発表の野心作にまつわるエピソードの数々を紐解く。

「レッド・ツェッペリンが長く続いているのは、変化を恐れないからだ」1975年にジミー・ペイジはそう語っている。その姿勢は熱心なファンを魅了する一方で、特定のスタイルにこだわるリスナーを憤怒させた。初期の作品における稲妻のようなサウンド、『レッド・ツェッペリンⅢ』でのケルト神話と共鳴するフォーキーなサウンド、『レッド・ツェッペリンⅣ』での大地を揺るがすようなロックサウンドを経て、バンドは1973年作『聖なる館』で未知の領域へと足を踏み入れた。

世界的な成功にも甘んじることなく、ツェッペリンは飽くなき探究心をもって新たなスタイルに挑戦した。レゲエの要素を取り入れた『ディジャ・メイク・ハー』、遊び心を感じさせるファンキーな『クランジ』、カテゴライズ不可能な『ノー・クォーター』等はその最たる例だと言える。同作は全曲がバンドのオリジナルとなった初のアルバムであり、彼らのソングライティングがもはやブルースを基調にしたギターロックという枠に収まらないことを証明してみせた。「『聖なる館』の制作時、バンドの創作意欲はとどまるところを知らなかった」プラントは1991年にそう語っている。「あのアルバムは俺たちのイマジネーションの結晶だった」

同作の発売45周年を記念し、レッド・ツェッペリンの5作目にまつわる10の知られざる事実を紹介する。

1.『永遠の詩』の原型は、『ジ・オーバーチュア』と題されたインストゥルメンタルだった

自らがロック界の頂点に君臨することを宣言するかのようなこの曲で、アルバムは幕を開ける。
ミニ・スイートとも呼ぶべき同曲で、ペイジはサスペンションコードの誇大な響き(彼がヤードバーズ時代に残した1967年作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、セイラー』を彷彿とさせる)と、デリケートなアコースティックサウンドを融合させてみせた。メンバーに曲を初めて聴かせた時点では『ウスター・アンド・プランプトン・レース』(ペイジとプラントの自宅についての内輪ネタ)と題されていた『永遠の詩』は、1972年10月の日本ツアーで初めて披露されたが、ステージ上では『ザ・キャンペーン』『ジ・オーバーチュア』『ゼップ』等、毎回異なるタイトルで紹介されていた。『永遠の詩』というタイトルは、バンドの長期にわたるツアー生活で培われた知恵を滲ませたプラントの歌詞から取られている。「『永遠の詩』を歌うたびに実感するのは、世界中をツアーで回るバンドなんて星の数ほどいるってことだ」彼は1973年にNME誌にそう語っている。「大切なのは音楽が優れているかどうかだ。それがレッド・ツェッペリンとアリス・クーパーの違いさ」

2.『レイン・ソング』誕生のきっかけは、バンドのレパートリーの狭さに苦言を呈したジョージ・ハリスンの言葉だった

ジョージ・ハリスンはレッド・ツェッペリンの良き理解者だった。1973年にはジョン・ボーナムの25歳の誕生日パーティに出席し、主役の顔面にケーキを投げつけるというエピソードも残している(ボンゾはその仕返しに彼をプールに投げ込んだ)。バンドがロサンゼルスで行った3時間にわたるコンサートを観ていたハリスンは、興奮した様子でバックステージのメンバーにこう話しかけた。「お前らすごいな!ビートルズなんてたった25分の持ち時間でも、15分も経った頃にはヘロヘロになってるのにさ!」そうは言いながらも、普段は無口なことで知られるハリスンは、バンドのレパートリーにおけるスローな曲の少なさには疑問を感じていたという。「ある日ジョージはボンゾにこう言ったんだ。『お前らはもっとバラードを演るべきだ』」ペイジは伝記作家のブラッド・トリンスキーにそう語っている。「俺は『じゃあ書いてやるよ』と答えた。そして出来上がったのが、『聖なる館』に収録された『レイン・ソング』だ。実を言うと、あの曲の最初の2コードはビートルズの『サムシング』から拝借したんだよ」彼は同曲を、自宅スタジオのプランプトン(機材の中にはザ・フーの1970年作『ライブ・アット・リーズ』のレコーディングに使用されたパイ・モバイル・スタジオのものも含まれていた)で書き上げた。同曲がハードなロックを専門とするコンソールには不向きであることを自覚していた彼は、曲に『スラッシュ(感傷的でくだらない作品の意)』という皮肉めいた仮タイトルをつけた。

歌詞を書いたプラントにとって、『レイン・ソング』は自身とペイジの絶妙なバランス感を象徴する曲だという。「バックトラックだけのテープを聴かせると、大抵の人間はこう返してきた。『歌詞はないのか』ってね」プラントはローリングストーン誌にそう語っている。「熱病に浮かされるかのように、俺は『レイン・ソング』の虜になって、翌日の朝にはもう歌詞を書き上げてた。その次の日に書いていたとしたら、あの熱意を捉えることはできなかっただろう」彼は以降何年にも渡って同曲を演奏しており、2005年のインタビューではフェイバリットのひとつに挙げている。「『レイン・ソング』では自分のヴォーカルの魅力を引き出せたと感じてる。録った瞬間、同じパフォーマンスはもう2度とできないだろうと思った。あの時から、ファルセットのシャウトは俺の代名詞のようなものになったんだ」

3. チーフエンジニアを務めたエディ・クレイマーは、バンドとインド料理を巡って大喧嘩した過去があった

ペイジはバンドの全アルバムのプロデュースを手掛けているが、初期のバンドのサウンドを決定付けた1969年作『レッド・ツェッペリン Ⅱ』では、伝説的エンジニアのエディ・クレイマーの手腕が大いに発揮されている。しかし翌年の『レッド・ツェッペリン Ⅲ』のセッション時に、両者の関係は悪化する。「ツェッペリンとは口論が絶えなかった。俺は連中のスタジオでの態度が気に食わなかったんだ」クレイマーは2003年にそう語っている。彼がジミ・ヘンドリックスと共に立ち上げたニューヨークのクリエイティブ空間、エレクトリック・レディランドで起きたある出来事はクレイマーを激怒させた。「メンバーがインド料理の出前をとって、それを大量に床にこぼしやがったんだ」クレイマーはそう話す。「俺はローディーにすぐ掃除するよう指示した。完成したばかりだったあのスタジオを、俺は誇りにしていたんだ。するとあいつらは『俺たちのローディに指図するな!』とか言って、そのままスタジオを出て行ってしまった。それから1年間、俺たちはまったく口をきかなかった」

クレイマーは1971年作『レッド・ツェッペリンⅣ』には参加していないが、ペイジは5枚目のアルバム制作時に彼を呼び戻している。クレイマーによると、バンドは過去の確執を水に流そうとしたという。「まるで何事もなかったかのように電話をかけてきて、レコーディングを手伝ってくれって頼まれたんだよ」

Translated by Masaaki Yoshida

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