監督・齊藤工、主演・高橋一生 フラットで自由な出会いの刺激と喜び|80年代生まれの焦燥と挑戦

Emiri Suzuki | 2018/03/13 12:45

| 映画「blank13」の監督・齊藤工(左)、主演・高橋一生(右)(Photo by Miho Fujiki) |


齊藤:話をするなかでこの「blank13」のキーワードとして「インディアン・ランナー」というキーワードを一生さんからいただけたのが、僕にとってはとても大きかったです。自分の大好きな作品だし、俳優のショーン・ペンが初めて監督を務めた作品でもある。一方、音楽の金子とはニール・ヤングの話をしたり。いずれにせよ、今現在だけでなく、その人それぞれの、これまでの人生で琴線に引っかかってきたものを、言葉ではないコミュニケーションのような部分で交わさせてもらって、自分自身もどんどん目指す方向が見えてきたので。

高橋:それ、今言われて気づきました。ショーン・ペンはそういえば俳優さんだし、工さんにとっては俳優が監督をするということの意味も合わさっていたわけだ。自分としては、どちらも兄弟の話であることと「ほとんどガイドをつけない映画のシステムとは」ということを考えていて、話に出したつもりでした。これからそういう、説明をしない/ガイドをつけないお芝居というものは人にもっと必要になっていくんじゃないかと、僕は偉そうにも思っていて。そういうものだったら「インディアン・ランナー」が僕は大好きです、って話をしました。

齊藤:好きな映画を僕が伺ったわけでもなかったけれど、自然な会話の中で、あの作品(イディアン・ランナー)の持っている死生観などをヒント的に下さったんですけど。プレイヤーがディレクションするということの意味合いも含め、僕はそこでめちゃくちゃ合点がいった。この作品を作るにあたってのドラマ性やそこに生まれるリアリティみたいなものは、そういう一生さんとのコミュニケーションの中で、質感が生まれていったんです。

ー先ほどグザヴィエ・ドランのお話も出ましたが、ミレニアルズという若き世代も存在しています。そういった世代からの刺激や、あるいは上の世代の人たちが作ったものに対して何らか挑戦してみよう、というような意識はありましたか?

齊藤:どうだろう…、そんなに作為があるということではないですね。でも最初の話の通り「映画は2時間にはめなきゃ」ということではないな、というのはあって。僕は、Youtuberのような方のほうが自分のライバルと思いたいです。尺にはめること第一ではなく、旨味をエスプレッソのように抽出し凝縮した部分だけで提示して、そこにユーザーが嗅覚で飛びついていくというような勢い。それって今や、Youtubeという独立した世界のものではないはずですし。観る側の興味や旨味を映像の中にはめるという意味では、本当に素晴らしいと思うから。この映画もその辺りはとても自然で作品に対して決め事をせずに作れたし、最終的に70分になったのは「この作品に必要な時間だった」ということなんだろうと。さらに結果的に、そういう挑戦に同じ世代の方達と臨めたということは、とても嬉しいことです。


Photo by Miho Fujiki

ー高橋さんは、作品への参加を躊躇された時期もあったそうですね。


高橋:ちょうどお話をいただいていた時期が、近親者の死と重なっていました。人の死が自分の間近にあることで、お芝居が自分の状況から離れられないのではないか、と。お芝居にあまりに自分の素が出てしまうということは危険かもしれない、と思ったんです。作品としてはとても興味があるし、お声がけいただいた時点では是非、と思ったんですけれども…。僕の中に濃厚に近親者の死があり、作品との距離感が測れない感じになっているかもしれない、ということをお話ししたら、工さんも「さすがにそれは」と慮ってくださって。

齊藤:ええ、ちょっとさすがに難しいかもしれないと、諦めつつも。

高橋:けれどその時に渡された脚本を読み、僕は「おおっ」て思った。タイミングだったのだとも思いますし。工さんにお会いして、人として素敵な方だとも思ったので、なんとかやりたいと。

齊藤:一生さんは悩んでいる間も、ずっとこの作品のためにスケジュールを確保してくださっていたんです。出演の許諾をいただく前から脚本にまつわるやりとりをさせていただき、本当に作品が“なまもの”になっていったと僕は感じています。一生さんとのコミュニケーションの中で、どんどん全体のトーンや質感が、今この出来上がった作品の方へと向かって行ったから。先ほどの虚構とリアリティの話そのものでもありますよね。一生さんが当時の状況の中で感じられていることへ、脚本だけでなく作品全体のピッチが集約されていくように感じてました。だからもしも仮に高橋一生さんが主演でなく、別の座組になっていたとしても、そこまでのやりとりで、既に十二分に一生さんの色が入っていたし、僕ら製作陣も「そこに頼らせてもらう」ぐらいの、深層心理の部分をいただいてしまったなと思っていた。それ以前の台本はまだいろいろなものが過剰に書かれていたと思います。でも、人間て別に悲しい時は必ず泣くわけではないじゃないですか?そういう多面性や、ある種の人間の水っぽさみたいなものも一生さんと出会ったことで、一気にハンドリングできて。だからただ主演として出ていただいた、という感じでは全く無く、作品の最初の段階から立ち会っていただき、見守って、さらに先導していただいたように思います。

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