レディオヘッド『パブロ・ハニー』知られざる10の真実

8. BBCは“憂うつすぎる”として『クリープ』を放送禁止にした

後に音楽出版界を賑わせる存在となる前のレディオヘッドは、批評家たちには勝てなかった。1992年秋、『クリープ』がシングルとしてリリースされるとNME誌は、“哀れで臆病なロックンロール・グループの悪例”と評した。さらに写りの悪いヨークの写真に“醜い、醜い、醜い”というキャプションを付けた。(彼はその軽蔑の報道を決して忘れず、恨みさえ抱いた。) ロサンゼルス・タイムズ紙はもっとご親切にレビューの中で、類似するアーティストの長々としたリストを並べ立てた。「アルバムには何ら新鮮なものはない。スミスもどきのメロディと、ザ・キュアーが広めた暗さを必死に追い求めている」とマリオ・マンドズは書いている。ホリーズと比較されたのと同じく、レディオヘッドはこのような感じで特徴づけられた。「『パブロ・ハニー』だけで僕らを判断して欲しくない」とエド・オブライエンは1997年にセレクト誌に語っている。「僕らは、ダイナソーJrやピクシーズにすっかりはまっていたんだ」 しかし最も酷い批評は、批評家によるものではなかった。「BBCラジオ1は当初、『クリープ』を放送禁止にした。“憂うつ過ぎる”という理由だという。しかし同曲が海外で売れ始め、放送に対応したバージョンをレコーディングし直すと、局は方針を覆した」

9. 『クリープ』の成功にひと役買ったビーバス&バットヘッド

バンドのビデオがMTVで定期的に流されるようになったのと同時に、同チャンネルに登場するふたりのスーパー・ティーンエイジャー、ビーバス&バットヘッドから強力なお墨付きを得た。1994年にオンエアされたマイク・ジャッジ原作のアニメーション・シリーズのあるエピソードの中で、ビーバスとバットヘッドが座って『クリープ』のビデオクリップを観ているシーンが出てくる。当初バットヘッドは、イントロの静かなギターに何の反応も見せなかった。「心配するな、バットヘッド」と、心得たビーバスは言う。「もうすぐクールになるぜ」 そして曲がコーラスに差しかかった時、骨をも砕くパワーコードが、ふたりに「ロックだぜ!」と歓喜の声を上げさせた。「ビーバスはほとんどいってただろ?」と、1996年5月のスピン誌によるインタビュー中にジョニー・グリーンウッドは笑った。アニメのこのシーンは特にヨークにとって特別だった。彼はビーバス&バットヘッドのファンだったのだ。バンドの米国におけるレコード会社キャピトル・レコードもこのアニメに便乗し、すぐに新たな宣伝に採り入れた。「レコード会社は、“ビーバス&バットヘッドがダサくないと言っている”の宣伝文句を使って“アイム・ア・クリープ”コンテストを開催したんだ」とコルデリーは振り返る。“イングランドのオックスフォードで最も騒々しいバンド”というキャッチコピーには、ビーバス&バットヘッドのトレードマークである“ハハハ”という特徴的な笑いが続く。

バンドは1993年7月4日、記念すべきMTVビーチ・ハウスに出演した。青白くむっつりしたイギリス人たちがプールサイドの酔っぱらいたちに囲まれて居心地悪そうにしている。ブロンドのヨークは明らかに緊張した面持ちで『クリープ』と『エニワン・キャン・プレイ・ギター』を歌った。最後にヨークはマイクもろともプールへ飛び込み、感電するのではないかと思われた。

10. セカンド・アルバム『ザ・ベンズ』の『マイ・アイアン・ラング』は『クリープ』に対する恨み節

有名になった多くのアーティスト同様、レディオヘッドもまた、彼らをスターダムへと飛躍させたきっかけに対して恨めしく思うようになった。1993年の終わり頃には『クリープ』が彼らの重荷となり、ベリーやPJハーヴェイのサポートとしてのハードな2年間のツアーも、彼らのイライラを鎮めることはできなかった。「人生の中の同じ4分半を繰り返し生きているように思える瞬間がある」と、1995年にエド・オブライエンはニューヨーク・タイムズ紙に語っている。「本当に馬鹿らしく感じる」 『クリープ』から逃れたいというプレッシャーから、同曲を『クラップ(くず)』と呼ぶようになり、グループをバラバラにしかけた。「何か新しいことをやりたいと思った時に、あの曲だけで僕らが評価されるのはフラストレーションだった」とヨークは、デンバー・ポスト紙とのインタビューで語っている。「ツアーで強制され、それが僕らの首を絞め、僕らは解散寸前だった。ひとつの教訓だった。現代音楽のカルチャーでは、バンドはある一定の時間にはめられ、人生の中のその短い時間を繰り返す。それが誰もが望んでいる世界なんだ。そして僕らが望んでいなかったことでもある」

肉体的、感情的に疲れ果てたヨークに関して言えば、レディオヘッドは“悪魔に魂を売った”バンドで、今はただ前へ進むしか選択肢がない状態だった。さもないと「あのクリープのバンド」と一生言われ続けることになる。数か月間彼らは目的もなくスタジオに籠もってあがき、前作を越えようと心に決めたものの、どの方向へ向かってよいかわからなかった。バンド内の人間関係は最悪だったが、短期間のツアーが彼らの頭をクリアにし、ついにクリエイティブな才能が溢れ始めた。

『パブロ・ハニー』に続き、新たに書かれた作品のひとつが『マイ・アイアン・ラング』だった。ヨークのコンディションの問題でレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした後に書かれた曲である。ロンドンのアストリア・クラブでライヴ・レコーディングされた(ヴォーカルはスタジオでレコーディングし直した)同曲は、ヨークの繊細さを映しているようだった。ヨークは、タイトルにも付けた、グループを生かしている医療機器(アイアン・ラング)と、バンド最大のヒット曲とを比較した。「This is our new song, just like the last one, a total waste of time(これは俺たちの新しい曲だ。前の曲と同じで、まったくの時間の無駄さ)」と歌う。ヨーク自身の告白によれば、『マイ・アイアン・ラング』を棺に打つ“最後の釘”と呼び、『クリープ』を永遠に葬り去るつもりだったという。「でもそれだけではなかった」と彼はBサイド誌に語っている。「その曲を聴いた時、僕らはとても興奮した。それでリリースすることにしたんだ」 同曲は当初、1994年にリリースされたEPのタイトル・トラックだった。それがレディオヘッドの次のアルバム『ザ・ベンズ』の代表曲となるのだった。音楽的に密度が濃く、感情的に入り組んだ傑作で、一発屋というレッテルを永久に消し去った。

Translation by Smokva Tokyo

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