ドアーズ『ハートに火をつけて』:知られざる10の事実

8.アルバムのリリースに伴うプレスリリースで、ジム・モリソンは自身の両親が他界しているという虚偽の記述をした


『ジ・エンド』に登場する「父さん、あんたを殺してもいいかな」という有名なフレーズは『オイディプス王』にインスパイアされたものだが、そこにはモリソン個人の感情も絡んでいる。厳格な両親を持ち、複雑な家庭環境の中で膨らんでいったダークな部分は、彼の音楽的才能と狂気の両方を育んだ。

モリソンは子供の頃の経験について語った数少ない場のひとつで、自身の幼少期を触れるべきでない「開いたままの傷」としている。彼の父親、ジョージ・スティーブン・モリソンは海軍の上等士官だった。モリソンのミドルネームである「ダグラス」は、父親が尊敬していたダグラス・マッカーサーにちなんでいる。父親は彼がマッカーサーのような人物になることを願っていたため、音楽の道を選んだ息子に大きく失望していたという。

モリソンは子供の頃から各地を転々とし、父親はいつも不在がちだった。反抗的な態度を取るたびに、彼は父親から容赦なく罰せられたという。モリソンの弟のアンディは作家のジェリー・ホプキンスとの対談において、父親は暴力を振るうことこそ少なかったものの、彼とジム、そしてアンの3兄妹は、軍人の間で「ドレッシング・ダウン」と呼ばれる罰を受け、涙を流すことが少なからずあったと語っている。

最終的に海軍少将の地位についたモリソンの父親は、軍隊の世界におけるカメレオンマンのような存在だった。1941年に真珠湾攻撃を目の当たりにした彼は、その20年後にベトナム戦争激化の引き金となるトンキン湾事件において、アメリカ海軍のボノム・リシャールの指揮をとっている。彼はケープ・カナベラル、ペンタゴン、そして海軍隊員専用のゴルフコースでは広く知られた存在だったという。

息子が音楽の道を進もうとしていることを知らされた時、父親は「才能の欠如」を理由に「歌を含む一切の音楽活動から身を引く」よう諭す手紙を送ったという。結果としてモリソンは父親と絶縁し、2人はそれ以降一度も顔を合わせることはなかった。1970年に、彼の父親は親しい人物の前でこう口にしたという。「彼が私と連絡を取りたがらないのも無理はない」

バンドのプレス用バイオグラフィーの作成にあたり、エレクトラがジムに両親と兄妹の名前を書くよう求めたところ、彼は「すでに他界」と記した。当初は親しい友人でさえ、彼には身寄りがないと信じていたという。

モリソンと絶縁状態にあった家族の誰一人として、彼がバンド活動をしていることを把握していなかった。ある日クラスメイトが持っていたドアーズのアルバムのジャケットを目にした弟のアンディは、兄そっくりのリードシンガーを見て驚いたという。「友達があのアルバムを持ってたんだ」彼はホプキンスにそう語っている。「僕自身、シングルの『ハートに火をつけて』が好きで何ヶ月も前から聴いていたけど、実の兄がヴォーカルだなんて思いもしなかったから本当に驚いた。その時点で、ジムからは2年間連絡が途絶えていた。その翌日に僕はアルバムを買って、家に帰るとすぐ両親に聴かせた。僕の父は音楽に明るく、ピアノとクラリネットが達者だった。古いバラードの耳に残るメロディーが好きだったんだ。その一方で、父はエレキギターの音とロックが大嫌いだった。ドアーズのアルバムを聴かせた時、父は何も言わずただ黙り込んでいた」

母親のクララはエレクトラを通じて彼と連絡を取ろうとしたが、多忙を極めていたモリソンは一向に応じようとしなかった。ワシントンD.C.でのコンサートでは彼女に最前列の席を用意したが、バックステージへのアクセスは許可しなかった。その日のコンサートに足を運んだ人々は、当日披露された『ジ・エンド』には鬼気迫るものがあったと話している。

1967年当時19歳だったアンディは、その後もモリソンと連絡を取り続けた。「会えなかったことに母はひどく落胆していたと彼に伝えた。『一度連絡を取ればその後も続けないといけなくなる』それが彼の言い分だった。彼はこう言ってた。『家族と寄り添うか、それとも一切の関係を絶つか、俺にはその中間の選択肢がないんだ。毎日のように連絡を取るか、あるいは一切連絡しないか、そのどちらかだ」彼が選択したのは後者だった。

彼の父親が人前で息子について語ることはほとんどなかったが、死を目前に控えた2008年に収録されたトム・ディシロのドキュメンタリー『When You’re Strange』で、彼はモリソンに対する思いを語っている。「今では息子のことを誇りに思っている」彼はこう続けている。「彼は自分のせいで家族が世間やメディアの目に晒されるのを懸念していたのかもしれない。ロックミュージシャンというキャリアを私が認めようとしないことを、彼はよく知っていた。彼は彼なりに、私たち家族を守ろうとしていたのかもしれない」

デンズモアは自伝でこう付け加えている。「個人的にはそれを真実だとは思っていない。ジムは自分の意思で家族との縁を切り、決して修復を試みようとはしなかった」

Translation by Masaaki Yoshida

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