ブルーノ・マーズ「完璧主義者の新たなる挑戦」

最後に結婚式で演奏したのがいつだったかは覚えていないと彼は話す(「中国でやったのは何となく覚えてるんだけどね」)。しかし人々が思う以上に、彼はそういった場でのパフォーマンスに慣れている。「俺は8歳の頃から誰かの結婚式で歌ってきたからね」彼はそう話す。「エンターテイナーとしての俺のスタート地点さ。バル・ミツワーで場を沸かせたり、高校の体育館で開かれるタレントショーでグランプリを獲ったりした時のことを思い出したよ。初心忘れるべからずだからね」

驚いたことに、彼はバックバンドのザ・フーリガンズと共に、昨夜も知人の誕生日パーティーで演奏したばかりだという。「マリブにあるすごい豪邸でさ」彼はそう話す。「ゲストは全員50代以上だったな。演奏中に振り返ってバンドの連中を目にした時は、思わずウルッときたよ。マディソン・スクエア・ガーデンのステージに立っているかのような本気度で、全員汗だくになってたからね」

マーズのショーマンシップは両親から受け継いだものだ。彼の父親でありパーカッショニストのピーター・ジーン・ヘルナンデス・シニアは、70年代に生まれ育ったブルックリンからハワイへと移住した。ワイキキのヒルトンで行われていたポリネシアン・レヴューでドラムを叩いていた彼と、幼い頃に家族と共にフィリピンから移住してきたフラダンサー兼シンガーであり、後にマーズの母親となるベルナデッタの2人は、ある日ヒルトンで行われたパーティで出会った。数年後にブルーノが誕生した頃には、マーズ家はショービズの世界にどっぷりと浸かっていた。父親は自身のバンドを率い(「ブルックリンから移ってきたドゥーワップのプロ集団だった」)、母親がブルーノの叔父たちと組んだコーラスグループには、彼の姉と兄が参加することもあったという。今となっては広く知られているように、マーズはエルヴィスの物真似で地元の人気者となった。

週に6日、ホテルのディナーパーティーでエルヴィスの曲を歌う日々は、彼のエンターテイナーとしての資質に磨きをかけていった。「エナメル革の靴、小指の指輪、ムースで固めた髪、そういうショービズの世界こそが俺にとっての学校だったんだ」彼はそう話す。マーズは現代では数少ない歌って踊れるエンターテイナーであり、『エレンの部屋』を欠かさずチェックする主婦たちから愛される一方で、ミスティカルやビッグ・ショーンといったラッパーたちと堂々とヴァースを交換してみせる。「最近になって気づいたことなんだけどさ」彼はそう話す。「いつも観光客を相手にパフォーマンスしてた俺は、ありとあらゆる人を楽しませないといけなかったんだ。黒人も白人も、アジア人も南米人も関係なく、ハワイにやってくる全ての人々を笑顔にするのが俺の使命だったんだよ」

マーズが11歳か12歳の頃に両親が離婚したことで、その日々は終わりを迎えた。彼の妹たちは母親と共に家を出たが、ブルーノは父親のもとに残った。まだ子供だった彼には辛い出来事だった。


「うちは一家全員で音楽をやってたからね」彼はそう話す。「家族が離れ離れになると、状況が一変したんだ。両親が離婚して、生まれ育った家は売りに出され、父は職をも失った。俺たちは親しかった人の厄介になる、半ばホームレスみたいな生活を送ることになった。リムジンの座席で寝させてもらってたけど、正直辛かったよ。でも音楽一筋だった父は諦めずにホテルにかけ合い続けて、また演奏させてもらえることになったんだ」

歌はマーズのすべてだった。「それ以外の選択肢はなかったんだ」彼はそう話す。「運が味方してくれなかったら、今でもどっかのレストランで毎晩ギターを片手に歌っていたかもしれない。何があっても、俺は一生歌い続けるとその頃から決めてたんだ」長年かけて培われた彼のエンターテイナーとしての自信は、NFLのような巨大組織が相手でも決して揺らぐことはない。「スーパーボウルに神のご加護を」彼はそう話す。「彼らにとって、俺の起用は賭けみたいなもんだったはずさ。でも俺には彼らの期待に応える絶対の自信があった。そしてカメラを前にした俺とバンドのやつらは、有無を言わせないパフォーマンスを披露してみせた」

Translation by Masaaki Yoshida

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