没後25年、フレディ・マーキュリー列伝:知られざる10の真実

By JORDAN RUNTAGH
(Photo by Dave Hogan/Hulton Archive/Getty Images)

1979年10月7日土曜日、ロンドン・コロシアム劇場で、2500名のチャリティ後援者を前に、マーキュリーはバレエの初舞台を踏む。『ボヘミアン・ラプソディ』と、そのあと発売になった『愛という名の欲望』をオーケストラの演奏で歌い上げ、上半身裸の3人の男性に高々とリフトされた。最後の山場では、銀色のボディスーツに身を包み、こうもりのように頭を下にして宙吊りになる演技もやってのけた。

当時客席で見ていたロジャー・テイラーは、ブレークに対し「あんなことをやって済まされる人間なんて、どこ探しても他にいないよ。平均年齢94歳の、ステージでひょいっと持ち上げられている銀色のモノが何をしているんだかわからないような、頭の固いロイヤル・バレエ団の観客の前で演技したんだから。勇気があるというか、おめでたいというか」と話した。

「バリシニコフとまではいかなかったけど、おじさんのバレエ初心者としては悪くなかったよ。ミック・ジャガーにも、ロッド・スチュワートにも見せたいね」と、マーキュリーは後になって、この経験を冗談交じりに振り返っている。

6.『愛という名の欲望』はバスタブの中で作られた



クイーンは1979年6月にアルバム制作のため密かにミュンヘンへと旅立ち、完成したニューアルバム、「ザ・ゲーム」が発表される。豪華絢爛なバイエリッシャー・ホフ・ホテルにチェックインした後、バスタブで旅の垢を落とそうとマーキュリーはバスタブに足を入れたとき、メロディーが浮かんできたという。しゃくりあげるような歌い方をするロカビリー調の曲で、パロディの要素も入っている。若かりし頃のマーキュリーに、歌手として多大な影響を与えたエルヴィス・プレスリーがその頃亡くなり、敬愛を込めて歌われている。アコースティックギターを弾けと、アシスタントのピーター・ヒンスを呼び、バスタオルを体に巻き付けて、マーキュリーとしては珍しい、極めてシンプルな曲の基本部分が作られていった。

1981年のメロディ・メイカーの取材に対し、マーキュリーは「『愛という名の欲望』は5分か、せいぜい10分で作った」と認めている。「ギターで作曲したんだ。ギターは全然わからなかったのに。コードなんかあまり知らないから、そういう制限がかえって成功につながったと思うよ。小さな枠組みの中で曲作りをするのは、いい訓練だった。いっぱいコードを使ったら、曲作りの足かせになってしまって、いい曲が書けなかったと思う。制限があったからこそ、いい曲が書けたんだ」と、マーキュリーは話した。

だいたいの骨組みができたところで、マーキュリーはさっそく、ミュージックランド・スタジオで曲を固めていった。事前に、エンジニアのラインホルト・マックに録音の準備をするよう電話していた。「とにかく急いで、一瞬で、何もかも準備したよ」と、『Days of Our Lives』の中で、マックは話している。クイーンのメイ以外のメンバーは来ていたが、マーキュリーは、メイの不在をおしてレコーディングを敢行した。実際、束の間であっても、完璧主義者からの反発から逃れられ、若干救われたところがあった。「(マーキュリーが)『ブライアンが来る前に早く終わらせよう。そうじゃないと長引くぞ』って」とマックは笑った。

本当に、メイが到着する前に作業は終わっていた。「ブライアンの好みじゃないだろ」という意見があがっていた。実際、メイは気に入らなかった。第一印象でピンと来なかったところがあったが、それよりもクイーンのほとんどのレコーディングでメイが使用してきたメイン・ギター『レッド・スペシャル』を諦め、50´sっぽいフェンダーのテレキャスターを使ってくれ、と言われたことに腹を立てていた。「面白くなかったね。反対したんだが、それが進むべき道だとわかった」と、メイはブレークに言った。
Translation by Kyoko Kawamae

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