久保田利伸デビュー30年の軌跡:人気絶頂期の渡米、止められなかった挑戦(前編)

By RollingStone Japan 編集部
レコードデビュー30周年を迎え『THE BADDEST〜Collaboration〜』を11月23日にリリースする久保田利伸
日本のファンク、ソウルのブラック・ミュージック・シーンを開拓してきた久保田利伸。彼がレコードデビュー30周年を迎え『THE BADDEST〜Collaboration〜』を11月23日にリリースする。

同アルバムは、この30年のキャリアのなかで国内外・年齢・ジャンルを問わずさまざまなアーティストたちとコラボレーションした楽曲を集め、さらにAI、ミュージック・ソウルチャイルドそれぞれとのコラボが実現した初収録の2曲を追加したベストアルバムだ。久保田利伸の30年の軌跡を追った本インタヴューの前編では、デビューから93年の単独NY移住までを激白してくれた。

―デビュー30周年ということで、まずは改めてデビュー当時のお話から聞かせてください。デビュー曲は1986年『失意のダウンタウン』ですが、その前の大学時代から鈴木雅之さん、田原俊彦さん、小泉今日子さんなど、ものすごくたくさん楽曲を提供していたんですよね?

厳密に言うと、学生が終わる頃からデビューするまでの1年が、曲を本格的に書いていた時期ですね。

―きっかけは何だったんですか?

その時は、自分が歌ってデビューするための事務所とレコード会社が最終的に決まり出した頃で、いよいよデビューできるって思ってたんだけど、なかなか具体的なプランが決まらなくて。その僕が契約していた事務所が、当時作家マネージメントみたいなことをやってたので、勉強のために人に曲を書いてみないかと言われて。日本の歌謡界のなかで曲を書くテクニックも知識もないから、勉強のために、という感じで始めたんです。それで作った曲がわりと面白かったみたいで、時々使われるようになっていって。

―ファンキーな歌謡曲を書ける人って、当時は他にいなかったですもんね。

いろんな人に書いたけど、特にジャニーズの人に喜んでもらえたみたいですね。ジャニーズは踊りがマストだったからファンキーな曲が欲しいんだけど、なかなか日本人は書かなかった時代だったから重宝されたのかもしれない。

―田原俊彦さんの『It’s BAD』(1985年)とか、衝撃的でしたもん。久保田さんがデビューした頃、日本のお茶の間にはファンクとかファンキーっていう言葉がまだなかったと思うんですよ。

ファンクはないね。ファンキーは、大阪のおばちゃんが"ファンキーな服やな!"とか言ってたかもしれない(笑)。もしくはジャズ・ミュージシャンが使ってたかもしれないけれど、お茶の間レベルだと珍しかったかもしれないな。

―そんなファンクという日本人には馴染みのない、しかも苦手といってもいいような音楽と、日本のポップスを見事に融合させた第一人者が久保田さんなんわけですが、何故そんなことが上手く行ったんですかね?

今思えばタイミングですよ。例えばマイケル・ジャクソンの僕の一番好きな『オフ・ザ・ウォール』(1979年)は黒人にしか売れなかったけれど、その後に出した『スリラー』(1982年)は全世界で人種関係なく売れたじゃないですか。僕が楽曲提供をして、その後デビューしたのは、『スリラー』明けの2〜3年後だったから。それまでファンクを含めたブラック・ミュージックはある意味マニアックなものとされていたけれど、『スリラー』を機に手に取りやすいもの、もしくはオシャレなものとして聴いておいたほうがいいものになっていったんだと思う。そのタイミングで、ブラック・ミュージックから影響を受けた自分がやりたい音楽をやっていったので、そんなに小難しいことじゃなかったような気もするけど。
Interview by Joe Yokomizo, Text by Nanako Kubo

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