ジョン・レノンの「キリストより有名」発言論争の真実

ビートルズに対抗する宗教復興集会への参加者はいつもより若干少なかったが、午後のコンサートはほとんど問題なく始まった。"ビートルズが慣れている、いつも通りの気ままな出迎えにのようだった"とコマーシャル・アピール紙(メンフィスの日刊紙)は書いている。少数のKKKメンバーがミッドサウス・コロシアムの外でピケを張っていたが、この一連の騒動の中ではよくある光景だった。



ビートルズは自信を取り戻し、心機一転その夜のコンサートに挑んだ。そしてそれは、3曲目のジョージ・ハリソンの『恋をするなら』まで続いた。すると突然、ファンの金切り声や大盛り上がりのロックの音に遮られることなく、爆破音がホールを引き裂いた。確かにライフル銃のような音が、喜びの歓声を恐怖の叫びに変えた。

「僕らは互いの顔を見合わせた」レノンはこう振り返る。「みんな自分以外の誰かが撃たれたと思ったからね。そのくらい事態は深刻だった」スタッフと一緒に舞台袖から見ていたバーロウも同じ感想だった。「僕ら全員と3人のビートルズメンバーは、ジョンが倒れるだろうと思って彼を見たんだ」

しかし、それは銃声ではなかった。いたずら好きな子供がバルコニー席からチェリーボム(爆竹)を投げ入れたのだった。報道によると4人のファンが軽傷を負ったが、ビートルズメンバーは、少なくとも身体的には無傷だった。彼らはとにかくライブを終わらせたい一心で、駆け足で曲の演奏を続けた。お楽しみの時間は終わりを迎えた。

こうしてビートルズとしてのツアー活動は爆破音と共に終わった。入場料のかかるコンサートでの最後のパフォーマンスは、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで10日後に行われることになっていたが、レノンにとってはメンフィスの件がとどめの一撃だった。「もうツアーはしたくなかった。不用意な発言をしただけで、キリストを十字架に掛けたのはお前だと非難され、会場の外にはKKK、中では爆竹だ。限界だった」まれにあるテレビ出演やビートルズの代表的なルーフトップ・コンサート(映画撮影のために行われた屋上でのゲリラライブ)を除いては、ビートルズは、グループとしての残りの活動をスタジオの中に留めた。

1970年に解散した後も、レノンの"キリストより有名"発言は、敬虔なキリスト教徒の逆鱗に触れ続けた。中でもひどく失望していたのは、かつてビートルズを崇拝していたキリスト教再生派の若者、マーク・チャップマンだった。その発言を知った後、レノンへの尊敬の念は裏切られたという苦い思いに変わった。そして怒りに任せ、持っていたビートルズのアルバムを破壊した。チャップマンの激しい怒りはエスカレ―トし、猟奇的妄想に取りつかれ、精神を病んでいった。1980年12月8日、チャップマンは弾丸を込めた銃を持ち、ニューヨークのダコタハウス前でレノンを待ち伏せた。十数年前にレノンを襲ったメンフィスでの恐怖は、ついに現実のものとなった。

Translation by Cho Satoko

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