Pファンク、バーニー・ウォーレル逝去:"鍵盤の魔術師"が音楽界へ遺したもの

ニュージャージー州のロング・ブランチで1944年に生まれ、ジュリアード音楽院で学んだウォーレルは、70年代初頭にパーラメントという名の当時のドゥワップ・ユニットのリーダー、ジョージ・クリントンと出会った。その後すぐに、ギタリストのエディ・ヘイゼル、シンガーの"ファジー"・ハスキンス、そして"ビリー・ベース"・ネルソンのいたクリントンのパーラメント/ファンカデリックのメンバーと共に、デトロイトに移動して、1970年のファンカデリックのデビューという大仕事をやり遂げた。5ヶ月後、『フリー・ユア・マインド』をリリースする。


バーニー・ウォーレルが5月22日の"モーグ・フェスティバル"で自身のキーボードを配置する姿。そこでの軽い演奏が、Pファンクの伝説の男による最後のライブ・パフォーマンスとなった。(the1point8 for Rolling Stone)

"鍵盤の魔術師"の異名を持つウォーレルは、ファンクに未来的なサウンドをもたらしたとして名声を得た。「テクノロジーそのものにはあまり興味はなかったんだが、ボストンのニューイングランド音楽院の学生だった頃、エマーソン・レイク&パーマーをよく聴いていたんだ。アルバム『タルカス』が好きでね。キースが初めてだったんだ、モーグを使っているのを私が聴いたのは。アルバムのサウンドと、彼がその楽器を使ってやっていることが好きだったんだ」とウォーレルはミュージック・レーダー誌に語っている。「それがモーグ・シンセサイザーだとわかって、それからしばらくして自分のミニモーグを買ったんだ。いや買ったのはジョージだったかな。そこからそのサウンドとの格闘が始まった。私がやったのは、欲しい音が出るまでノブを回し続ける。それだけさ」。

ウォーレルの公式サイトでは、この楽器の実験について次のように語っている。「シンセサイザーが登場した時、私はクラシック音楽畑で育ってきたし、オーケストラのすべてを知っていたんだ。ティンパニーやら何やら、すべてだ。私はそれがどんな風に響いて、どう感じられるかがわかっていた。だから、ホーンやストリングスのアレンジをキーボードでプレイすれば、ストリングスやホーンに聞こえる。つまり私はどんなフレーズにすれば良いか、ストリングスであればどんなフレーズになるか、ホーン、トランペット、サックス、トロンボーンのアパーチュアからのアタックがどう違うかが分かっていたんだ」。

Translation by Kise Imai

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