モハメド・アリ、戦い続けた人生

Photo by Brian Bahr/Getty Images

亡くなるまで社会運動を続けた、伝説のアスリートの波乱の人生を振り返る。

ボクシングのヘヴィー級チャンピオンで、生意気でいたずら好きなキャラクターや革新的なファイトスタイル、忌憚のない政治的なスタンスで、世界でも最も著名で、しかも高く評価されているアメリカ人の1人であるモハメド・アリが、米国時間6月3日(金)の午後に、32年間にわたるパーキンソン病との戦いの末、74歳で逝去した。

アリは1942年1月17日にケンタッキー州ルイヴィルでカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアとして生まれた。父親のカシアスは看板描き、母親のオデッサは家政婦をしていた。クレイが12歳の頃、自転車が盗まれた。怒りのクレイが、自転車泥棒を見つけたらぶちのめしてやると言っているのを耳にした警察官(たまたまボクシングのコーチもしていた)が、その前にまずはボクシングを習いなさいと薦めたのだった。

クレイはこの忠告に従った。クレイのアマチュア戦績は100勝5敗、6州でゴールデングローブ王座、全国王座も2度獲得し、1960年のローマ五輪に出場、ライトヘヴィー級で金メダルを獲得した。ローマから帰国した1960年10月、クレイはプロ転向を表明。その頃に雇ったアンジェロ・ダンディーは、アリが1981年に現役引退するまで、彼のトレーナーであり続けることになる。


ローリングストーン誌の表紙を飾ったモハメド・アリ

1963年の終わりまでに、クレイは無敗のまま19勝(うちノックアウト勝ちが15回)を積みあげ、ソニー・リストンが持つヘヴィー級タイトルへの第1挑戦者になっていた。そしていよいよ1964年2月25日、フロリダ州マイアミでタイトルマッチが行われることとなった。オッズ8倍でアンダードッグ(下馬評で不利)だったにもかかわらず、試合前のクレイは勝つのは自分だと繰り返し豪語。"蝶(ちょう)のように舞い、蜂のように刺す"自分に比べれば、チャンピオンなどのろまな"熊"野郎にすぎないと侮辱した。さらにクレイは、記者の前で自分の勝利にささげるポエムの朗読まで行い、これはその後も試合前の恒例となる。ポエムは次の様な節で締めくくられている。「カネを賭ける時、お客は夢にも思わなかっただろう。まさか、ソニー(太陽坊や)の皆既日食を見ることになるとは」

Translation by Kuniaki Takahashi

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