映画『FAKE』監督・森達也が語る、佐村河内を通して描かれる社会、メディア

By Joe Yokomizo 2016/06月号 P12〜12 |
『FAKE』 (C)2016「FAKE」製作委員会
本当は聴こえているのか、曲は作れるのか―――。
ゴーストライター騒動を発端に、日本中から好奇の目に晒された佐村河内守に、「A」の森達也がカメラを向けた。彼を追い、ドキュメンタリー映画として映し出された『虚と実』を、あなたはどう見るか。

佐村河内守の自宅を出入りしながら、約1年4ヵ月に渡って撮影したドキュメント映画『FAKE』。
「誰にも言ってはいけない」と謳われたラスト12分に注目が集まる本作について、監督の森 達也が語った。

―なぜ佐村河内 守さんを被写体に選んだんですか?

理由をあえてひとつ挙げるとすれば、始めて会った時に非常にフォトジェニックな人だと感じたので。もともと騒動そのものにはほとんど興味がなかったんですが・・・。

―森さんは、 フォトジェニックというだけでは映画にしないと思うんですが(笑)。

撮り始める前の自分の心情をしいて言えば、二極化が加速する世相への違和惑がありました。佐村河内騒動とほば重複して、STAP細胞騒動や朝日新聞の従軍慰安婦問題などがあり、その後もオリンピックのエンプレムやショーンK騒動などに続いています。いずれも真実と虚偽をあっさりと二分している。だから明快です。わかりやすい。でも現実はもっと複雑です。多重で多面的で多層で曖昧です。だからこそ豊かなんです。白黒や善悪などで二分してしまえば、合間の領域が消えてしまう。その傾向が加速しています。後付けの理由かもしれないと思いながら聞いてほしいけれど、日本全体がそういう雰囲気になりつつあることに嫌なものを感じていたので、彼を撮ることでそこを上手くフックできるんじゃないか、とは思ったかもしれない。

―映画には、 新垣(隆)さんから取材を断られたシーンもありましたよね。

本当は、僕は入れる必要性は感じていなかったんだけどね。いまだに中立とか公正とか言う人がいるけど、それらはドキュメンタリーにとって重要な要素じゃない。ドキュメンタリーは主観ですから。そもそも客観性など幻想です。片方(新垣さん)の側は様々なメディアで知られているから、僕は違う側を出しますよっていう。作品のなかでバランスをとる必要はさらさらないんです。先日、高市(早苗)総務相は、ひとつの番組の中でバランスをとれっていうことを言ったけれど、そんなのはあり得ない。いろんなメディアが あって、例えばフジテレビはこっち側、テレビ朝日は違う側を撮る。そうした自由が担保されることで、本当の意味のメディアの自立性や中立性が現出するんです。



—単純な図式にして、その両方を取り上げることが中立というのは違うんじゃないかなと僕も思います。

現実は複雑なのに、メディア、特にマスは整理してしまう。理由は明らかで、視聴者や読者が複雑なものを求めないから。 わかりづらいものは読まないし、観てくれない。それが、二極化の状況の背中を押している気がします。
Text by Nanako Kubo [RSJ]

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