キース・リチャーズのワイルド伝説19選(前編)

キースのスキー休暇(1972)
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Photo: Daily Mirror/Mirrorpix/Corbis

「完全に薬中だった時、スキーを習った」リチャーズは自慢げに語った。1972年、リチャーズはフランスでの薬物がらみの逮捕とイギリスでの税金問題から逃れるため、アニタ・パレンバーグと家族と共にモントレーの別荘に引っ越した。パレンバーグには、次々にやって来る友人たちとベントレーやフェラーリを乗り回したことが良い思い出になった。パーティー三昧の中、リチャーズはスキーを始めることにした。当時一緒にいた人たちは、ゲレンデのキースは危なっかしかったと振り返った。「俺がなぜ(亡命生活に)耐えられたかというと、上物が揃っていたからだ」キースは、スイスでの薬物事情についてこう語った。「クスリを手に入れる時は誰もが必死になるが、問題はクスリを持って国境を越える時だ。どうするかよく考えないとマズイぜ!」

25の罪(1973)
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Photo: Frank Barratt/Getty

キースは、ロンドンのチェルシーにあるチェイン・ウォークの自宅でパーティーを開いていた。シカゴ・ブルースのレコードプロデューサー、マーシャル・チェスを含むゲストを招き、レゲエのレコードを大音量でかけて酔っ払っていた。警察の家宅捜査を受け、ヘロイン、マリファナ、マンドラックス、ハンドガン、ライフル、弾薬110発が押収された。リチャーズは25の罪に問われたが、"敏腕弁護士"リチャード・ドゥ・カンの助けで保釈された。「俺の裁判が終わった直後、その裁判とは恐らく関係ないだろうが、ドゥ・カンは弁護士会の会長になった」

ボーイスカウトの非行(1950年代)
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Photo: Mirrorpix/Corbis

キースは10代の頃2年間ボーイスカウトに所属したが、奉仕活動との短い戯れは、ジャンボリー(訳注:ボーイスカウトの大会)にウィスキーを何本か持ち込んで終わった。その後、キースは、「ビーバー・パトロール」というグループの仲間と一緒に殴り合いの喧嘩に明け暮れるようになった。「その直後にヨークシャーの奴らとの喧嘩が2、3回あって、俺に疑いがかけられた」ヴィクター・ボクリスによる伝記、『キース・リチャーズ 伝説にならなかった男』によると、「喧嘩が発覚したのは、俺が誰かを殴りに行った時、誤って自分の手をテントのポールにぶつけて骨を折った後だ」とリチャーズは振り返っている。その2、3週間後、「間抜けな新入り」を叩きのめしたことでキースはグループから追い出された。

Translation by Rolling Stone Japan

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