キング牧師が大統領選に立たなかった理由

キングは1963年春、アドバイザーや地元の活動家たちとアラバマ州バーミンガムで非暴力の反乱を意図的に企てる。「危機を生み出して創造的な緊張を作り上げ」、人種隔離という不正義に全米の目を引き付ける狙いだった。この試みが成功したことで、正式な政治の域外で成し遂げられうることに関するキングの考え方が変わった。

伝統的な権力の捉え方では、社会の変革は画期的な立法を成し遂げた政治指導者の功績とみなされる。この観点からすると、1964年の公民権法は何よりもジョンソン大統領の伝説的な強圧策の結果ということになる。クリントンも2008年の大統領選で、この観点からジョンソンの役割を強調した。しかし、それが逆に災いし、公民権運動の擁護派から偏狭な歴史観だと非難される結果になった。

null
マーティン・ルーサー・キング、1964年7月2日。公民権法に署名するジョンソン大統領。AP

事実、バーミンガムをはじめとする大規模な不服従運動の広がりにより、それまで腰を上げようとしていなかった政治家たちも、もはや不作為は妥当な選択肢ではないことを認識せざるを得なくなった。歴史家のアダム・フェアクラフが書いているように、ロバート・ケネディ司法長官は「もっと急進的な政策を採らなければ連邦政府は圧倒されてしまう」と確信するに至った。

フェアクラフは、さらにこう付け加えている。「バーミンガムとその後の抗議行動が政治情勢を一変させ、公民権の法制化が実現可能になった。それまでは不可能なことだった」

キングは最後まで、当局者たちが避けようとする行動を迫るための圧力として社会運動を用いる姿勢を貫いた。キング=スポックの大統領選出馬をめぐる憶測を鎮めるため、キングは1967年4月に記者会見を行い、立候補に関心はないと明言した。「私の役割は、党派政治の外側で活動することにあると考えるに至った」と、キングは語った。

大統領選への不出馬を決めたキングは、代わりに経済的不平等に対して行動を起こす「貧者の行進」を立ち上げ、首都ワシントンでの大規模な抗議行動で揺さぶりをかける構想を打ち出した。「この運動が成功すれば、非暴力が再び社会変革の中心的手段になると、我々は信じている。そして、苦しめられている貧しい人々の手に職と所得が行き渡るようになるということも」と、キングは1968年に述べている。しかし不幸にも、暗殺者の放った銃弾により、キングはこの動員の実現を阻まれた。

それでもなお、現在の「Black Lives Matter」や「Fight for $15」(15ドルを求める戦い=最低賃金の引き上げを訴える)などの運動は、キングが考えた社会変革の流れを受け継ぎ、民主党の大統領候補指名獲得レースにおける政策討論の争点にもつながっている。

バーニー・サンダースは職業政治家としての道を選んだことで、キングとは別の道筋を追い求めた。しかし、政治的に実現できることの範囲を社会運動によって広げられるという点について、大半の政治家よりも深い認識があることを示している。「政治的革命」を訴えるサンダースは、「誰が大統領に選ばれようとも、その人が、この国の働く世帯が直面している極めて大きな問題に対処することはできない」と論じている。国内議論の焦点を変えるために草の根運動が必要とされている、という論点だ。

この大統領選でサンダースはすでに、大半の識者の予想をはるかに超える成果を生み出している。しかし「政治的革命」を現実に変えるには、予備選挙での健闘よりもはるかに大きなものが求められる。ワシントンでの非暴力の抗議──大規模な対決──というキングの構想が、今もアメリカの民主主義を救うために必要とされているのかもしれない。

Translation by Mamoru Nagai

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE