ショーン・ペンが語る:麻薬王エル・チャポとの会談(後編)

自分たちのホームグラウンドに戻り、私とケイトは別れる。私は送迎サービスの車に乗り込む。後部座席には、私のLAでのアシスタントが携帯電話をマニラ封筒に入れて置いておいてくれた。私が電話の電源を入れると2日分の未読のメールとテキストメッセージが爆発する。私はそれらを無視し、最新のニュースを見るためにインターネットのブラウザを開く。私が知らないことであり、報じられていないことだったが、天気が回復したとき、シナロアでは軍による包囲攻撃が目前に迫っていた。その前の晩、どうやらエル・チャポと仲間たちは私たちと別れた後、ある牧場の地所に戻るのにジャングルを通るのを避けたようだった。数日後にやっと出てきたマスコミの報道によると、追跡されたのは彼の仲間の持っていた一台の携帯電話だった。軍と麻薬取締局がエル・チャポらに近づいた時点から何が起きたのかに関する報道は対立しあっている。カルテルに近い情報源は10日3日に最初の包囲攻撃が始まったと私に語った。この情報提供者とシナロアの現場にいるもう1人によると、その後の数日間で軍のヘリコプター2機が追撃され、メキシコの海軍の陸上部隊がいくつかの牧場を包囲攻撃した。13のシナロアの町や村が同時に包囲攻撃を受け、銃撃によって破壊されたという続報が流れた。国際連合人権委員会はこの地域に入ろうとしたが禁止された。村人たちは軍による処置に抗議した。通信社がアメリカにこれを報じた頃には、その数日のシナロアの騒乱は縮小し、エル・チャポと仲間たちだけを外科的に標的にする包囲攻撃がほぼ成功するという結果になった。エル・チャポは飛行中に顔と足を怪我したと報じられた。

ケイトとやりとりしていたブラックベリーのメッセージを通して、エル・チャポは後日私に直接説明した。「10月6日に作戦があった。2機のヘリコプターと6機のブラックホークが到着すると衝突が始まった。海軍は農場中に散らばっていた。農民の家族たちは逃げ、殺される恐れから家を捨てなくてはならなかった。全部で何人死んだのかわからない」。彼自身の怪我の報道について尋ねると、チャポは答えた。「言われているような怪我ではない。ちょっと足を怪我しただけだ」。

その4日後、私は世界銀行のパネルディスカッションに参加するためにロサンゼルスからペルーのリマに飛ぶ。リマに数日、そして古い友達を尋ねるためにニカラグアのマナグアに一泊滞在した後、10月11日がやってきた。エル・チャポと会う約束をした日だ。もっともなことであるが、彼と仲間は包囲襲撃の間、身を隠していた。それでもなお私はメキシコシティの近くまで飛ぶ、予約できたフライトに乗る。アロンゾにメキシコ国内のその空港で数時間待つとメッセージを残し、私が8日後に戻るという誓約を遵守したことを確実に彼らにわからせようとする。その日の午後遅くに私は着陸する。そして夕方まで空港で座って待つ。見ず知らずの人が私の肩を叩き、自分がアロンゾの友人であり、彼と一緒に出発しなくてはならないと言ってくれることを望みながら。そして同時に、自分がメキシコの諜報機関かアメリカの麻薬取締局に監視されているだろうという考えが再び私の脳裏に浮かぶ。どちらに監視されていても、連絡はこない。だから私はその日の夕方、1人で飛行機に乗りロサンゼルスに帰る。

Translation by Yoko Nagasaka

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